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2015年10月13日 (火)

人間誰しも最後は100%死に至ります

近年次第にその範囲を拡大させている末期患者のいわゆる安楽死を認めている地域に、このほどカリフォルニア州も加わることになったそうです。

「死ぬ権利」法案、米カリフォルニア州知事署名(2015年10月7日読売新聞)

【ロサンゼルス=加藤賢治】米カリフォルニア州のブラウン知事は5日、一定の条件下で末期患者に「死ぬ権利」を認める法案に署名した。

 開会中の州特別議会が閉会してから90日後に発効する。

 カリフォルニア州法は、余命6か月以下と診断された18歳以上の患者が対象。書面などで医師に死の希望を伝え、致死薬を処方してもらい、服用することを認める。条件を満たしていれば、医師は「自殺ほう助」で起訴されない。米国ではオレゴン州やワシントン州でも、致死薬の処方による安楽死を認めている。

 カリフォルニア州では昨年11月、脳腫瘍で余命わずかだった女性がオレゴン州に移り、「死ぬ権利」を行使して死亡。全米で賛否の議論が起きた。女性は生前、カリフォルニア州でも「死ぬ権利」が合法化されるべきだと訴え、遺志を継いだ遺族らが法案成立を働きかけていた。

ちなみに言葉の問題として、それをしなければ死んでしまう治療行為を中止することで死に至らしめることを消極的安楽死と言い、毒物など積極的に死の手助けをする場合を積極的安楽死と言いたいと思いますが、すでに世界的に見ても前者の行為は日常的に当たり前に行われている一方で、後者に関しては法的に殺人罪に問われないか等々の問題から議論が盛んであるわけです。
この昨年11月1日に起きた予告安楽死事件の顛末については以前にも紹介したところですが、こうした死に方自体の是非は別としてある州では認められた権利がある州では認められないと言うのはやはり不公平感もあるのでしょうか、地元カリフォルニア州でもこうして合法化されたと言うのは、その権利行使を目指している方々にとっては福音になりそうですね。
もちろん人間本当に死ぬ気になれば死に方は幾らでもあるのですから、法律でどうこうと言う議論にはあまり意味がないのでは?と言う声もありますが、やはり残された家族のことを思えばあまり後を濁さない死に方をしたいと言う心情もあるのだろうし、それ以上に医療行為の一環として行われることで苦痛なく確実な死を迎えられると言う期待感があることは容易に想像出来ます。

もちろん先のオレゴン州での安楽死にしても本人は生きる手段が尽きたためにやむなく安楽死を選らんだと言う事情があるわけですが、そもそも生きる手段が尽きるとはどういう状態なのか?と言う定義も曖昧で、最終的に死を避けられない状態になったと判断された場合になお治療行為を続けるべきなのか、それはいわゆる延命医療と何が違うのかと言う議論もあるはずですよね。
しばしばこうした観点で専門家の間でも意見が分かれるのが癌治療と言うものですが、すでに完治は出来ないが余命を伸ばす手段はまだ幾つかありそうだと言う場合に、どうせ最終的な結果は同じなのだから今さら余計なことはしませんと言う患者も、そして医師も少なからずいると言うのも、治療自体のしんどさ等の事情もあるにせよ結局は死生観の問題に行き着くのかも知れません。
ただそれも全ての関係者が正しい情報を得た上で理性的に判断出来ていると言うことが大前提であるはずですが、先日以来相次いでいる著名人の発癌と言うことに関連して、こんな興味深い記事も出ていました。

川島なお美と北斗晶、こんなに違った医師の説明(2015年10月5日日経メディカル)

 1年ほど前から、「闘病ブログ」というジャンルのブログを読み始めた。大半が、治らない病を抱えた患者本人によるもので、かかっている病の多くは癌だ。その闘病ブログにここ数日、必ずと言っていいほど登場する2人がいた。女優の川島なお美さんと、元女子プロレスラーの北斗晶さんだ。川島さんは癌のため亡くなり、北斗さんは癌の手術を受けた
(略)
 川島さんと北斗さんはどちらも、自身のブログに、医師から癌を告げられた時の状況をつづっている。もちろん、患者視点からの記述であり、実際に医師が告げた言葉とは違うかもしれない。かかった癌の「猶予のなさ」も違う。言葉を受け取る側である、2人の性格的な違いもあるだろう。
 だが──。もし私なら、北斗さんの主治医のような医師から告知を受けたい、と思えてならないのだ。

「今は5年先、10年先、生きることを」
 毎年秋に、マンモグラフィーによる乳癌検診を受けていた北斗さん。右胸に痛みや外観上の変化を感じたため、秋まで待たずに検査を受けたところ、癌を告知された。セカンドオピニオンのため訪れた病院でも、乳癌との診断。主治医から、癌のステージなど詳細な説明とともに右乳房全摘出が必要だと告げられても、すぐには受け入れられなかった。すると、主治医はこう言ったという。以下、北斗さんの2015年9月23日付のブログより引用する。

    「胸の事よりも今は5年先、10年先、生きることを考えましょう。」
    生きること。
    こう言われた時に初めて、今の自分は命さえも危険な状態なんだと分かりました
    そういう病気なんだと。
    それが癌なんだと…

 生きること、という言葉で、病気の重大性、治療の必要性が、見事に伝わったのだ。
 一方の川島さんの場合、毎年受けていた人間ドックで偶然、腫瘍の存在が分かったものの、血液検査(恐らく、腫瘍マーカーの検査値)には全く異常がなく、良性か悪性かは分からない状態だった。最終的には「覚悟を決めてお任せできるドクター」に出会え、腹腔鏡手術を受けたのだが、そこに至るまでの間に出会った医師との間にはこんなやり取りがあったという。以下、川島さんの2014年3月27日付のブログより引用する。

    「とりあえず
    切りましょう」
    私「いいえ
    良性かもしれないのに    外科手術はイヤです」
    「ならば    抗がん剤で
    小さくしましょう」
    私「悪性と決まってないのに?
    仕事が年末まであるので
    それもできません
    「ならば
    仕事休みやすいように
    悪性の診断書を
    書いてあげましょう」
    は~~???
    (病理検査もしてないのに!)
    もう
    ここには
    任せられない!!

 繰り返しになるが、ブログに書かれた医師の言葉は、川島さんが受け取った言葉であり、実際に発せられた言葉やそこに込められたニュアンスはこの通りではなかったかもしれない。だが、なんとも歯がゆい、この「すれ違い」ぶりはどうだろう。
 もし悪性だったら、手術以外に確実な治療手段のない、時間的な猶予のない、肝内胆管癌。体の深い所にあるので、病理検査はおなかを切らないと行えない。「半年、1年、生きることを考えましょう」と、事の重大さを伝えることはできなかったのか──。
(略)

川島さんのような胆管癌などは難しい病気で、手術で取り切れなかった場合はあまり劇的に効く治療法と言うものがありませんが、その場合延々と病院に通い治 療を受けるよりもその時間で社会生活なりプライベートの時間なりを優先したいと言う考え方はそれほどおかしなものではないだろうし、特に女優のように人前 に立つことが仕事である場合優先すべき順番も変わってくるのかも知れませんね。
世の中には色々な考え方の方がいらっしゃるものですし、川島さんタイプの患者さんは今どき決して珍しくはありまえんが、患者の自己決定権というものが最優先されるこれからの時代「あなたは今なら助かる病気です!すぐに手術しましょう!」と「無理押し」してくれる医者と言うものも次第に絶滅していくのだと思いますけれども、ご本人が最終的にどのような気持ちで自分の人生を振り返り、亡くなっていったかですね。
ただここで指摘したいのはむしろ北斗さんのケースで、本人も会見で言っているように決して高い確率で完治すると期待される状態ではない、むしろ最終的に負け戦になる確率の方が高そうだと言う場合に、それでもきつい治療を続けて頑張ってみようと考えるのは本人はもとより周囲の人間にとっても、かなりの心理的負担をもたらすだろうとは想像出来ます。
そうしたストレスもプレッシャーもかかる状況下で冷静に正しい判断をしろと言うのも無理だろうし、そもそも「正しい判断」などと言う正解じみたもの自体存在しない場合の方が多いわけですが、ただ一つ言えることは人間誰しも最後には必ず死ぬものであって、最終的に死ぬからそれまでの治療は無駄だと言うことは必ずしも言えないんじゃないかと言うことでしょうか。

その昔エイズと言う病気が世間に知られるようになった頃はとにかく怖い病気だ、うつったら死ぬと半ばパニックのようなことになりかけた時代もあって、特に自分がその病気にかかったと知れば絶望から自暴自棄な行動に走る人も多く、感染防御策を取らずにわざわざ病気を広めて回るような行為を繰り返していた人もいらっしゃったわけです。
ただ現在ではかなり長期に渡ってコントロールがしっかり出来るようになっていて、高価な治療薬がずっと必要になると言う難点はあるにせよ10年、20年と安定的に病気と共存していられるようになってきたわけですが、死病と言われる病気でもほぼ半永久的に病気がしっかりコントロール出来るようになったとすれば、それはもはや眼鏡をかけたりするのと同じように単なる個性の一つとも言えるものになってくるかも知れません。
残念ながら癌をはじめ大部分の死に至る病気は未だにそこまでの境地には至っていませんが、日々治療法が進歩し何年と言う単位の比較的長い余命が期待出来る方々も多くなってきた中で、それでも結局いつかは死ぬのだから何をやっても同じ事だと考える人もいれば、それだけの時間があれば色々と出来ることがあると考える人もいるはずですから、やはり結局最後のところでは本人が何をどう優先的に考え判断するかの部分になってくるでしょう。
ただその判断の前提となる情報の入力が間違っていればどんなに考えてもまともな結果が出て来ないのは当然で、特に川島さんのようにあちこちドクターを渡り歩くタイプの方の場合、話を聞く相手それぞれに言うことが違うだろう中で誰の言うことを信じればいいのかと迷う局面も多いと思いますが、医療の場合は変に大穴を狙ってみるよりも、最後にはより多数派の意見に従うと言うやり方もまあ悪くはないのかなと言う気がします。

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コメント

完璧に苦痛除去出来ても死のうとする人がどれくらいなのか?
思想信条や経済的理由で安楽死希望ってそれなりにいるんでしょうかね?

投稿: ぽん太 | 2015年10月13日 (火) 07時53分

自殺するのは自由なんだから死ぬ権利っておかしいでしょ
正しくは自殺幇助に対しての免責って言うべき

投稿: | 2015年10月13日 (火) 08時24分

米国の多数であるキリスト教じゃ自殺は犯罪と見られているから、
死ぬ権利っていうのも有りじゃない?(イスラム教も同じみたいだけど)

投稿: | 2015年10月13日 (火) 09時20分

 自殺する権利、というものを主張する人がいることを排除することはできませんが、
社会制度として「自殺する権利」を認め、「自殺する権利」を盾にとって幇助する人を免責することには反対です。 「諸般の事情で(嵌められて)自発的に自殺を選択させられることになった人間」って多いですよ。
 終末医療に関しては 医療者がどうにかしようとした揚句のことですが、ほかのもろもろの自殺でその辺どうなっていたのか、どうにかできなかったのか、吟味してますか、ってことですよ。
 「何もかも自己責任の社会」での「自殺ほう助の免責」は「目をつぶって終末処理業務の事務的簡素化」に貢献しかねないです。あ、死亡保険にも特約を用意しておかないといけませんねw

投稿: 感情的な医者 | 2015年10月13日 (火) 11時38分

日本の医療現場の状況を考えると、仮にそれが許容されたとしても積極的安楽死の行使には医療側の抑制が強く働きそうに思います。
現実的には看取り専門の先生が対応することになるのかなと思いますが、大多数の場合消極的安楽死のみで十分に思うのですけれどもね。

投稿: 管理人nobu | 2015年10月13日 (火) 12時55分

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