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2015年2月16日 (月)

自分で死に方が決められると言うのは実はかなり幸せなことです

本日の本題に入る前に、先日はカナダ最高裁においてこんな判断が示されたと言います。

カナダ最高裁、安楽死認める判決 効力発生は12カ月後(2015年2月7日朝日新聞)

 カナダの最高裁は6日、医師による自殺幇助(ほうじょ)を禁止する法律を違憲とし、安楽死を限定的に認める判決を言い渡した。自ら判断できる成人が命を絶つことに明確に合意し、重大で治療の見込みがない疾患があり、耐えがたい苦痛を受けている場合、安楽死の選択を認めないことは個人の自由を侵害すると判断した。

 カナダ最高裁は1993年にも安楽死の是非について審理し、小差で医師による自殺幇助を違憲としていた。6日の判決では9人の判事が一致して選択する権利を認めており、時間の経過とともに考え方の変化が現れた形となった。判決の効力が発生するのは12カ月後で、政府はその間に法改正で対応することができる。

 訴訟は、2009年に筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断された女性が起こし、別の難病にかかり、スイスで安楽死をした女性の遺族も原告として加わっていた。ALSにかかっていた女性は12年に亡くなっている。

 ロイター通信によると、医師の幇助による安楽死はスイスなど欧州の4カ国と、オレゴンなど米国の3州で合法となっている。(ニューヨーク=中井大助)

注目いただきたいのは20年前と比較して司法の判断も大きく変わったと言う点ですが、もちろん判事達の判断の変化のバックグラウンドとして社会の考え方の変化があるのだと考える方が妥当ですよね。
記事にもあるように昨今では世界的に安楽死(積極的安楽死)と言うものを認める国や地域が次第に増えてきていて、しかもそれなりに利用したいと言う希望者がいると言いますから需要は確実にあるのでしょうけれども、「安楽死希望者がどんどん増えて行ったらどうする?」と言う懸念に対して、実際にやってみると決して増える一方と言うわけではなく、かなり抑制的な利用状況?で安定的に運用されているそうです。
大々的な不況など社会的環境の変化とこうした制度利用者数の動向がどの程度相関するのかは今後の検証課題だと思いますが、少なくとも医学的に余命が限られている人限定などきっちりとルールを設けた上で運用する限りは無制限無原則に乱用されると言うこともなさそうなので、今後こうした認識が広まっていくにつれて全世界的に制度の法制化が拡大していくのかも知れません。
もちろんこれらはあくまでも完全な個人の主体的な自由意志にのみ基づいて決定されるべきなのは言うまでもないことで、周囲がそれを強いるようなことがあってはならないと誰しも言うところなんですが、一方で国が高齢者の終末期医療の指針として治療の手控えもありと言う道筋を示すようにもなった時代に、国内においても尊厳死(消極的安楽死)も含め他者の意志に基づく命の終わらせ方に関わる議論も出てくるのは当然でしょう。

「能率的に死なせる社会」が必要になる 建て前としての"命の平等"は外すべき(2015年2月8日gooニュース)
より抜粋

自己決定の尊重という大原則が医療現場を、そして患者本人をも縛っている。人間の死と日々向き合う医師がただす大いなる矛盾と、逡巡の先に到達した着地点。『医師の一分』を書いた里見清一氏に聞く。
(略)
──日本では対応能力が限られる中、今後高齢の死者が急増します。
命は平等かという問題について、私も揺れ動いてるところはあります。ただ建前としての“命は平等”というのはもう外してもいいのかな。現実問題、すでに平等じゃない
救命センターの研修医時代、パンク寸前で受け入れ制限せざるをえなくなったとき、指導医はこう指示しました。労災は受ける、自殺は断る、暴走族の“自爆”は断る、子供は無条件に受け入れると。僕もそれを正しいと思った。現実的に命に上下は存在すると思っている。老衰の人に点滴して抗生物質使って、無理やり生かしてどうする? はたしてそれがいいんですかね? 貴重なベッドを老衰患者でずっと塞いでしまうことが。

──医学的な重症度以外に、社会的な価値も考慮に入れるべきだと?
実質的にはみんなそう思ってやっています。家族に「もう歳だからあきらめる」と言わせて、あくまで家族の選択として苦痛だけ取ってお見送りする。医者は患者の価値を決めちゃいけないと建前上なってるから、家族にそう言わせてるだけです。
90とか95の老人をさらに生かす見返りに、働き盛りの人にあきらめてもらうのは、やっぱりおかしいですよ。アル中で肝臓悪くした親父が子供や嫁さんからの肝臓移植を希望する。好き勝手した人間がそこまでして長生きしたいと言う。敏感な人が遠慮して身を引き、鈍感な人がのさばるなら、それはもう不公平でしょ。生きたいという意志を無条件で尊重しなきゃいけないかというと、できることとできないことがある。

「能率的に死なせる社会」が必要だ
──矛盾と疑問だらけの現実に、今後どう対処していくのでしょう。
僕が役人だったら、能率的に死なせる社会のことを考えますよ。だってそうしないと間に合わねえもん。
ただ現場の医者として、それは怖い。この患者はここまで治療すればOKという明確な方針で進めてしまうと、僕はナチスになりかねない。自分はがん専門だからまだラクで、慢性腎不全なんか診てる同僚は大変ですよ。90歳で判断能力もない患者を押さえ付けて透析して点滴して、もう10年やってるから今さらやめるわけにはいかない、家族も決められない。今日び医者は訴えられるのが怖いから、逃げにかかって延命措置をする

──結局、誰かがどこかで線を引く日が来るのでしょうか。
誰か考えてるんですかね? たぶん左右両極端には行けず、宙ぶらりんのまま状況見て、多少右へ左へってことをやっていくんだと思う。それとも何とかなっちゃうんですかね。今では孤独死を、それでもいいと思う人が増えてるように、日比谷公園で一晩に3人5人死ぬことに慣れちゃって、そんなもんだと思うようになれば、キャパうんぬんも何もどうとかなっちゃうのかもしれない。
(略)

一部暴論とも受け取られかねない過激な言葉もありますけれども、なかなかに示唆的な内容が多い記事ですので是非とも元記事も一読いただければと思いますけれども、ここで語られているのは死のあり方と言うものも一見個人の自由意志に基づくものとして保証されているように見えて、実際には社会的制度的なしがらみから自由でいられるものではないと言う当たり前のことではないかと思います。
実際に国民皆保険制度が導入されるほんの半世紀ほど前まで日本でも田舎に行けばお医者様に診ていただくなどと言うことは大変な贅沢で、生涯で医者にかかるのは亡くなった時の死亡確認だけと言う方々も珍しくはなかったそうですが、それが有りだったのはもちろん現実的な費用負担の問題もあるにせよ、そういう人が周りに多数いて「あそこは病院にも行かせないで」などと非難される心配もなかったからと言うのも確かですよね。
本人の意志が確認出来ない超高齢者などで家族が代理で意志決定をしてくださいと言われても、「○○さんとこのおじいさんはどうだったかね?」「大きな病院で最後まで治療してもらったらしいよ」「それじゃうちも同じでお願いします」と周囲の様子を参考に決めていくしかないでしょうが、ではそれが理想的な看取り方なのか?と言われれば当事者の誰しも必ずしもそう感じているわけでもないのでしょう。

ちょうど国も施設から在宅へと言うことをしきりに推進している時代ですから、今後寝たきり超高齢者の在宅看取り問題が一気に噴出してくるのは確定的ですが、特に治療も処置もしないと言う意志決定がされているにも関わらずとりあえず救急車を呼んで急性期の病院に運んでしまうと言うやり方ではいずれ対応出来ない時代が迫っていることからも、制度のみならず国民全体で意識を変えていかなければならない問題と言えます。
在宅診療に熱心な先生がいらっしゃる地域では自宅でそのまま看取ったと言う方々が着実に増えているなど個々の実例は出ているようですけれども、例えば畳の上で死にたいと言う方々が多いのだから畳の上で死ぬためには何をどう調えればいいのかと言う視点で制度を考えるとすれば、具体的にどのパラメーターをどう動かせばそうなるのか、財政やリソース的にそれが可能なのかといった検証は実は結構難しそうですよね。
ただ国民の意志を集約化しボトムアップで制度を決めていけばいいのかと言えば必ずしもそうではなくて、まずはこれこれと制度を決めることで国民の認識も次第に変わっていき、結果として国民にとっても望ましい方向に社会常識が変化していくと言うやり方もあると思いますが、猫の目と言われる医療行政とその結果を見ていますと政治行政の当局者に正しい目的と手段の設定が可能なのかどうかと言う疑問はあるでしょう。

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コメント

他人が安楽死する権利を奪えると思う傲慢

投稿: | 2015年2月16日 (月) 07時36分

そう言えば医療の場で命は平等だって聞いた記憶はないような?
なるべく公平にはありたいって思ってますけど。

投稿: | 2015年2月16日 (月) 08時35分

里見清一氏の話の主題は尊厳死(消極的安楽死)に関する話だと思います。
ところが中間部にアメリカ女性に対する医師による自殺幇助(積極的安楽死)の話がはさまり、
最後に再び「安楽死」の言葉で締めくくっているために誤読を誘導しているように思われます。

もう一度書きますが、里見清一氏の話の主題は尊厳死(消極的安楽死)に関わる話だと思います。
上のコメントでも指摘されていますが、
医療の世界では昔からあたり前に行われてきたことです。
現在の日本国内の尊厳死の議論は、それが医師の胸先三寸で決められているのを患者の権利として確立しよう、という話だと私は理解しています。
で里見清一氏の議論ですが、私から見ると「患者・家族との対話が面倒なのね」という感想を抱くのみです。
急性期の現場がそれほど余裕をなくしている、ということなのかもしれません。

私は、急性期医療を担う医者はひたすら救命を考えていればよいと思っています。
期待外れの結果しか出なかった患者をどう死なせるかは、我々慢性期の医者が考えればよいことだと。

投稿: JSJ | 2015年2月16日 (月) 09時23分

私の読解にも誤りがあったかも。
里見清一氏は必ずしも、患者・家族との対話を否定しているわけではないのかもしれない。
でもやっぱりインタビュアーの話の振り方がおかしいために全体の文意が伝わりにくくなっていると思う。

投稿: JSJ | 2015年2月16日 (月) 18時12分

相続税のために金持ちは生き続ける必要がいるから、
先進医療と延命医療に投資されるお金が多い。
親の年金で生きていく人もいるから、親が長生きしないと破滅派と介護放棄派に分かれていく予想します。


投稿: | 2015年2月16日 (月) 20時12分

御指摘のように親の介護のために職歴を積み重ねられなかった方々の老後を誰が面倒見るのかと言う点は、少子化の影響もあって今後必ず大きな問題となってくる気がします。

投稿: 管理人nobu | 2015年2月16日 (月) 21時25分

↑そこで安楽死ですよw(ヲイ

投稿: 10年前にドロッポしました。 | 2015年2月17日 (火) 10時02分

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