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2014年10月18日 (土)

臓器移植問題から考える死の概念の変化

臓器移植もあちらこちらで実施が報じられるようになって久しいですが、逆に言えばいちいち記事になっているうちはまだまだなのか?とも思わされるのがこちらの記事です。

法改正後も臓器提供件数が低迷 社会の関心薄れ(2014年10月7日エコノミックニュース)

 臓器移植法が改正され、2010年からは書面による意思表示がなくても家族が承諾すれば臓器移植を行えるようになった。15歳未満の子どもからの臓器提供も解禁されたが、提供件数は低迷している。日本臓器移植ネットワークによると、心臓や肝臓、腎臓などに重い病気を抱え臓器移植を望んでいる患者は現在約1万3,000人にのぼる。しかし法改正が行われた後も提供件数は伸び悩み、10年で113件、11年で112件、12年で110件、13年には84件と減少し、本年は8月末の時点で44件となっている。

 臓器移植は1997年に臓器移植法が施行されたことにより、脳死下の臓器移植が認められるようになった。「脳死」を「人の死」と認め、生前に本人が書面にて臓器移植の意思表示を明らかにしていた場合に限り、家族の承諾を得てその体から臓器を摘出することができるようになった。自身の臓器提供に判断を下すことができる年齢については議論が重ねられ、最終的には民法を基準として、遺言が可能とみなされる年齢を参考に「15歳以上」からがふさわしいという結論に落ち着いた。

 しかし、15歳未満の臓器提供ができないということで、子どもの患者は国内で臓器移植手術を受けることができず、海外での治療に希望を託すしか方法がなかった。外国への渡航費や莫大な治療費を集めるために募金活動を行うケースも多く、法の見直しが行われることとなった。2010年からは家族の承諾があれば本人の意思表示が不明な場合でも臓器提供が可能となり、実質的に提供者の年齢制限はなくなった

 切実な思いで臓器提供を待っている患者にしてみれば大きな転換となったが、社会の関心は徐々に薄らいでいっているのではないか。厚生労働省が13年8月22日~9月1日に20歳以上の国民を対象に実施した3,000人規模の世論調査によると、臓器移植に対する関心が「ある」と答えた人は08年で60.2%だったが、13年で57.8%となりやや落ち込むという結果だった。反対に「関心がない」と答えた人は08年で39.8%だったのに対し13年には42.2%と上昇している。

 関心があるとした人の多くは「マスメディアで話題になっているから」と答えていた。法整備に関する議論が一段落しメディアで話題にのぼることも少なくなっている今、関心を社会に定着させる新たな取り組みが必要となっているのかもしれない。(編集担当:久保田雄城)

この臓器移植法改正に関しては以前から当「ぐり研」においても断続的に取り上げて来ているところで、特にそのバックグラウンドとして重要なのが2010年5月にWHOから「自国で臓器提供が受けられないことを理由に、海外に渡って臓器提供を受けるのは望ましくない」と、海外渡航による臓器移植を自粛すべきだとする指針が承認された点だと思います。
とりわけ日本の場合は以前から高額な補償金を積んででも海外で臓器移植を目指す人も少なくないと言う点で、地元待機患者を押しのけて割り込むような行為があるのでは?とも懸念されてきたわけですけれども、第三世界を中心に臓器をお金のある先進諸国民に商業的に提供する行為もまかり通っていることもあって、自国民向けの臓器は自国内でまかなうべきだと言う考え方が推進される状況となっています。
ただその推進にあたってやはり脳死と言う問題が大きなハードルとして立ちはだかっていることは言うまでもないことで、特に先の改正で小児からの臓器提供も認められるようになった点に関しては実施例も散見されはするものの、そもそもドナーとなる小児が被虐待児ではないことをどうやって証明するかなど課題山積で国内需要に到底追いついているとは言えないですよね。
脳死移植の前提条件である脳死そのものも「人の死とは認められない」と受け入れない方々もいて、現状日本ではそれはそれで構わない、とりあえず脳死も臓器移植も受け入れられる方々だけで移植をしていきましょうと言うかなり控えめな考え方ですが、逆に脳死は人の死ではないと言うのであればあのような状況で生き続けさせるのは問題だと、尊厳死の問題と絡めて議論したくなる向きもあるでしょう。
この点でも日本ではどうも議論が遅れがちでようやくかなり腰の引けたと言うのでしょうか、強いてそれを望む人達にとっては道はあると言った程度のルール作りがなされた程度に留まっていますけれども、海外ではそもそもの人の死の概念そのものも日本とはかなり違ってきているようで、先日は安楽死と言うことに関連してこんな記事が出ていました。

欧州で進む社会実験「12歳から安楽死」の評価は?(2014年9月29日週刊プレイボーイ)

スイスへの「安楽死ツアー」が密かな話題になっています。
ヨーロッパでは2002年4月にオランダがはじめて安楽死を合法化し、ベルギーとルクセンブルクがそれに続きましたが、自国民にしか安楽死を認めませんでした。それに対してスイスでは、外国人でも自殺幇助機関に登録でき、不治の病の末期であれば安楽死を受けられます。費用は7000ドル(約70万円)で、現在は60カ国5500人が登録しているといいます。
ベルギーで「最高齢アスリート」として親しまれてきたエミール・パウェルスさんは今年1月、家族や友人約100人とシャンパンで乾杯したあと安楽死しました。パウェルスさんは高齢者選手権で数々の記録を打ち立てましたが、末期の胃がんで寝たきりの生活を余儀なくされていました。取材に対して、「わたしの人生の中で最高のパーティだ。友人全員に囲まれて、シャンパンと共に逝くのが嫌だなんて人がいるかい?」とこたえています。
北欧やベネルクス3国など「北の欧州」はネオリベ化が進んでいて、「個人の自由を最大限尊重し、人生は自己決定に委ねられるべきだ」というのが新しい社会常識になっています。こうして売春やドラッグ(大麻)が合法化され、安楽死が容認されるようになったのですが、その流れはますます強まっています。

安楽死は本人の意思を確認できる18歳以上が原則ですが、オランダでは「子どもを苦痛にさらすのは非人間的だ」との理由で12歳まで引き下げられました。また重度の認知症で意思表示ができなくても、事前に安楽死の希望を伝えておけば、病状が進行したあとに医師の判断で安楽死させることも合法化されました。もっともどの国もうつ病など精神的な理由での安楽死は認めておらず、死が避けられないことや、激しい苦痛をともなうことが前提となっています。
もちろん、安楽死には批判の声もあります。しかし合法化から10年以上たち、当初懸念されていたような、安易に死を選んだり、家族などから安楽死を強要される、という事態が頻発しないことが明らかになって、国民のあいだで理解が広まりました。それと同時に、ドイツやイギリス、フランスなど周辺国で安楽死の合法化を求める声があがり、法制化を待てないひとたちが「安楽死ツアー」に登録しているのです。
日本では安楽死に否定的な意見が圧倒的ですが、「いつでも苦痛なく死ねるとわかったら自殺願望が消え、生きる勇気が湧いてきた」との報告もあります。安楽死によって救われるひとがいるのは確かですから、その功罪は一概にはいえません。
(略)

まさしくこれは死の概念とは何かを問う壮大な社会実験とも言うべきものですけれども、興味深いのはやってみれば案外予想していたようなトラブルは少なかったと言うことで、もちろん問題視されるべき事例が全くなかったわけでもないのでしょうが全体としてはさしたることもなかったと多くの方々が実感し受け入れつつあると言うのは、死の概念もまた現実の変化に伴って変わっていくと言うことを示しているのでしょうか。
先日内科医の大西睦子先生が書かれていたアメリカにおける経緯も似たようなところがあって、安楽死合法化をした州が増え貧困者等に対する周囲から強いられた安楽死など各種トラブルの発生も予期していたところ、実際には「「医師による自殺幇助」を選択して死を迎えた人たちの大半は、教育水準の高い白人男性であり、それまで自分の人生をコントロールしてきた、がんに苦しむ患者さん」だったと言います。
無論これが歴史的背景に根ざす文化的差異なのか、それとも脳死移植など社会のあり方が変化していく中で死に対する考え方も変化してきたのかは何とも言えませんが、つまるところ死の概念など人それぞれで理屈をいくらこねてもそう簡単にコンセンサス形成など期待出来ないし、むしろやりたい人にはある程度自由に実践させてみればさしたる問題もない上にかえってコンセンサス形成は早いと言うことでしょうか。

安楽死と言えば思わず身構えてしまう人も未だ少なくはないし、それが臓器移植とセットで語られるとなればやはり不快を感じる人もいると思いますが、人間死ぬときは自分の望むような死に方をしたいと言う考え方であれば誰しも「それはそうだ」と同意出来る話なのではないかと言う気がします。
世界的には患者が無意味な延命処置を受けず死を迎えること(尊厳死)は当然の権利であるとも見なされていて多くの国で法制化もされ、むしろ何が何でも生きながらえさせようとする方が虐待であるとも言われかねませんが、日本においては先年厚労省が音頭を取って末期高齢者は場合によっては延命処置も中断していいですよ?と言う指針が改めて出されるなど、まだまだコンセンサス成立済みとは到底言いかねる段階です。
厚労省にしてもなまじこんなご時世にそんなことを言い出したものだから「どうせ医療費削減のために言い出したことだろ」などと痛くもない?腹を探られかねませんが、言ってみればそこで亡くなるつもりで入所しているDNAR(蘇生処置希望なし)の施設入所高齢者に対してもいざ心肺停止となれば半数が無条件で病院に救急搬送され心肺蘇生処置を受けていると言うのは、やはり少し考えてみるべき状況なのかも知れません。
もちろん死という概念の間口が広がったからと言ってそれが直ちにドナー急増につながるわけでもないし、つながるべきでもない全く別問題ではありますけれども、世論調査における国民の認識から考えるとよほどに少数派に留まる臓器移植の施行数を見る限り、そういう選択枝もありなんだと言う死の概念の変化が社会に認識されてくれば、移植なども自然と数が増えてきそうな気はするのですけれどもね。

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コメント

無駄な延命医療は自己負担増やしたらいいのでは?

投稿: | 2014年10月18日 (土) 09時34分

安楽死を延命より高コストにすればどうかな

投稿: | 2014年10月20日 (月) 09時03分

>移植なども自然と数が増えてきそうな気はするのですけれどもね。
 すれ主さまの分析は少し違っているかも、と感じております。
 
 伊丹十三の初監督作品「お葬式」はそれなりのショックを与えましたが
 その後日本人は一層肉親の死とまともに向き合わなくなってきているかもしれない、意識的に物理的にそういう機会を減らし、最小限の時間しかかかわろうとしなくなっているのでは、と感じています。 身近に頻繁に死を見つめることをしないから、結果として自分の死に方をどうするかも、ますます空想的で実感のないふわふわしたのになっている。 団塊の世代が75歳を迎えると大量死が始まりますが、それまでに「見ないで済むような仕組み」をさらに強化してしまうのでは、と思っています。 日本人の見て見ぬ振りというかヒステリー性盲能力には、驚嘆しています。今現在、東日本大震災といちえふも淡々と切り捨てつつあるように見えますが、これとて、さらに来たるべき東南海地震や財政破綻を受け入れるための準備をしているようにも見えますね。必要だから適応が起きる、というレベル。

 自分も家族も死体になった後にも体にメスが入ることは嫌だけど、見知った誰かのために生きているうち痛い思いをするのは耐えられる、と思ってるらしい。この優しい心情でお互いを支え合って、乗り越えられなきゃあきらめる、のかな。それもまたよい。 死体腎移植より生体腎移植が数倍多いし、増加中ですよ。 岡山大学も心肺同時移植より生体肺区域移植技術として今後は生きて伸びてゆくのではないか、と思っています。

>無駄な延命 
 何を無駄と考えるか急速に変化中。 今回は掛け合い漫才はなし、かな。

投稿: 感情的医者 | 2014年10月20日 (月) 10時17分

諸外国でいわゆる無駄な延命治療をさっさとやめてしまうケースが多いのは、何より家族にとってそのコストを負担することが現実的に難しいと言う実情も大きいかと思います。
その意味で国が率先して自宅に老人を帰そうとしている状況になって、各家庭で恍惚の人化していく家族の介護に辟易してくる人々が増えることも大きな意識改革の要素になりそうですかね。
いずれにしても現在当たり前に思われている死生観もたかだかこの半世紀ばかりの間に出来上がってきた比較的歴史の浅いものであって、それならば次の常識も同じくらい短期間で広まる可能性はありそうです。

投稿: 管理人nobu | 2014年10月20日 (月) 11時06分

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