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2012年3月 8日 (木)

それはご老人だけの話ではありません

最近はオレオレ詐欺ならぬ「医療費還付金詐欺」と言われる振り込め詐欺事件が多発しているというのですが、先日は安く早く医療を受けられると日本人老夫婦に韓国の医療機関を受診させ、領収書を偽造して高額な金額を請求するという新手の詐欺も報じられたりと、とかく高齢者は医療費絡みの詐欺でターゲットにされつつあるようです。
各地で後期高齢者の保険料が値上げされたり、自己負担額自体もいよいよ特例での軽減措置が撤廃され2割になるとかならないとか言われていますが、医療費支出の中で大きな部分を占める高齢者医療に今までのような優遇措置を継続していられるほど医療財政も余裕がないということの現れでしょうね。
そんな中でも高齢者医療費負担の問題を抜本的に軽減、解消するための切り札ということなのか、このところにわかに議論が進んでいるのが高齢者の終末期医療差し控え、消極的安楽死容認論ですが、先日の自民党・石原氏の「エイリアン」発言に対する批判が今ひとつ盛り上がらないまま終わったように、どうやら政界やマスコミの中でも積極推進論者が増えてきている気配です。

尊厳死 医師責任問わず 超党派議連が法案(2012年3月7日東京新聞)

 超党派の国会議員でつくる尊厳死法制化を考える議員連盟(増子輝彦会長)は、終末期患者が延命治療を望まない場合、人工呼吸器装着など延命措置を医師がしなくても、法的責任を免責される法案をまとめた。近く総会で決定し、三月中にも議員立法で国会に提出する。

 議連は民主、自民、公明など与野党の国会議員約百十人で構成。二○○五年に発足し、尊厳死について議論してきた。法案をまとめるのは初めて。ただ、命の軽視につながるとして議連以外には反対の議員も少なくないため、成立は見通せない状況だ。

 法案は、適切に治療しても患者が回復する可能性がなく、死期が間近と判定された状態を「終末期」と定義。二人以上の医師が終末期と判定し、患者が人工呼吸器の装着、栄養補給などの延命措置を拒む意思を書面などで示している場合、医師が延命措置をしなくても、刑事、民事、行政上の法的責任を問われないと明記した。

 本人の意思が分からず、家族が延命措置を望まないケースは「法律の適用外」(議連幹部)とした。

 終末期医療をめぐっては、○六年に富山県射水市民病院で人工呼吸器を外された末期がんなどの患者七人の死亡が発覚。厚生労働省は医師の独断を避けるため○七年に初の指針を策定。しかし、延命措置の中止の手続きを定めただけで、延命措置をしなくてもよい基準は明確にしなかった

 現場からは国の責任で明確な基準を示さない限り、尊厳死を望んでいる患者に対しても責任を追及される可能性があるため延命措置を続けるしかない、との指摘が出ている。

見ての通り超党派でまとめられた今回の法案は本人の意志が判らない場合を「法律の適用外」とするという点でまだ未成熟な印象もありますけれども、誰しも内心では一定の範囲内で許容されることは望んでいながら責任問題等から有耶無耶のままスルーされてきた安楽死問題に対して、法的な裏付けが必要であるという認識に至ったのは一歩前進だと思います。
終末期を目前にしてどう看取っていくかという問題は人倫上は本人にとって人生最大の重要事なのは当然ですが、事後のトラブル等のリスクを考えると社会的には残される家族にとっての大問題とも捉えられるべきものであって、特に金銭によって医療が制約を受けることが少なく誰でも最善の医療が望める現代日本では、とりあえず出来る限りのことを希望しておくという以外の選択肢はそれなりに心理的障壁が高かったわけです。
そう考えると「金がかかるからお年寄りはさっさと退場願いたい」なんてドライな話に限らず、癌など各種疾患による終末期医療の問題は若年者にとっても重大な問題でもありますが、その意味するところは治療(cure)と介護(care)の最適提供機関が区別されるべきという問題、いたずらに心身の苦痛を長引かせるべきでないという人倫上の問題、そしてもちろん社会的には医療費の問題など様々に絡んでくるのだと言えそうです。

ちなみにcureとcareの違いというのは患者さんにとっては判りにくいところなのでしょうが、例えば癌治療の最高峰であるナショナルセンターなどはあくまでもcureを目指すために最善の機関であるというだけで、苦痛なく安楽な最後を迎えるために必須の最良のcareを得るためには到底ベストとは言えないし、限りある医療リソースの最大活用という観点からも単にcareを目的とした患者などはお断りされてしまうという現実もあります。
それでも地方の急性期基幹病院などでは「先生!私達を見捨てるんですか!」と叫ぶ終末期の方々がただ看取られるためだけに十分な終末期ケアを受けることなくベッドを占有している状況が未だにありますが、当然ながらこうした方々に必要なのは形ばかりのcureの努力によって更なる苦痛をもたらされながら亡くなっていくことではなく、ホスピス等でcareに特化された十分な対応を受けることであるはずです。
もちろん同じ施設内、同じ担当医やスタッフによってこうした全課程での最善最良の対応が得られれば患者側目線ではありがたいのでしょうが、残念ながら日本では保険診療上こうした異なる性格の医療はそれぞれに特化した医療機関で受けなさい、そして少しでも病床を安上がりで効率的に運用しなさいという方針に国が定めているわけですから、こればかりは納得いただくしかないところですよね。

余談はそれとして、最近こうした議論が盛んになっているのは表向きは主に人倫上の問題が以前から言われていたのが無視出来なくなってきた、これに加えてどうせ亡くなるだけの終末期にいたずらに高額な医療費がつぎ込まれ医療財政を圧迫しているのは困るという世知辛い事情も絡んで、不景気と円高、そして震災のトリプルパンチで財政改革が急務となっている状況が後押ししているということなのでしょう。
前述のようにお金という人類社会普遍のインセンティブが日本の医療では働きがたい以上、何らかの別な要因によって一定の圧力が加わらない限りはフルコース至上主義が主流派の地位から滑り落ちることはなかなかに無さそうですが、今はまだ少数派であっても家族の看取りなどで「それはちょっと違うんじゃないか」と感じてきた人々にとって、いざ自分がというときに別の選択肢が公的に保障されるというのは悪い話ではなさそうです。
国の思惑に載ってしまうのが嫌で受けたくもない濃厚医療を我慢して受けるのもおかしな話ですし、本当はもっと長生きしたいのに周囲の圧力で積極治療が受けられないのも困ったことですが、どんな選択をするにしてもきちんと情報を集めた上でなければ正しい判断は下せないのは当然ですし、人生の最後になってただ無知であったが故に間違った選択をしてしまうのは医療費の「無駄遣い」などよりはるかにもったいないことでしょう。
核家族化どころか未婚率上昇と少子化で日本人が一人一人孤独に生きていくようになった時代だからこそ、テレビドラマでの脚色されたものだけではない看取りの実情がもっと広く知られていく必要があるのでしょうね。

終末医療―医師と一般人はなぜ選択が異なるのか/ケン・マーレイ(2012年2月27日ウォールストリートジャーナル)

 何年も前、尊敬を集める整形外科医であり、私のメンターでもあるチャーリーは、胃に「塊」を見つけた。全米で最も良い外科医の1人は、それをすい臓ガンと診断した。その外科医は、患者の生活の質は低下するものの、5年生存率を3倍――5%から15%に――に引き上げられる手術を手掛けていた

 しかし、68歳のチャーリーは、手術には見向きもしなかった。翌日、彼は帰宅し、診療をやめ、病院には二度と足を踏み入れなかった。家族と時間を過ごすことに集中したのである。数カ月後、彼は家で亡くなった。彼は、化学療法も放射線治療も外科手術も受けなかった。メディケア(米高齢者向け医療保険制度)は彼の治療費にほとんど使われなかった

 言いたくはないことではあるが、医者も死ぬ。ここでの彼らの特徴は、大半のアメリカ人より、いかに多くの治療を受けているかではなく、いかに「少ないか」である。医者は、病気の進行について正確に理解しており、どんな選択肢があるのかを知り、受けたいと思う治療はどんなものでもたいてい受けられる。しかし、どちらかといえば、医者の最期は静かで穏やかだ。

 医者が、一般の人よりも生に執着がないというわけではない。しかし、彼らは、近代医療の限界について家族と常日頃から話している。その時が来たら、大掛かりな治療はしない、ということを確認したいのだ。たとえば彼らは、もう最期という時に、心肺蘇生救急(CPR)を施され、誰かに肋骨を折られたくはない(CPRの正しい処置で肋骨が折れることは十分にある)。

 医師が終末期の決断で何を望むかについて、ジョゼフ・J・ガロ氏らは、2003年に論文にまとめた。調査対象となった医師765人のうち、64%が、自分が再起不能となった場合、救命の際に取るべき措置と取らない措置を具体的に指示していた。一般人の場合、こうした指示を行う人の割合はわずか20%だ。

 医者と患者の決断には、なぜこのような大きなギャップが存在するのか。これを考えるうえで、CPRのケースは参考になる。スーザン・ディーム氏らは、テレビ番組で描かれているCPRについて調査を行った。それによると、テレビではCPRの件数の75%が成功し、67%の患者が帰宅できた。しかし、現実の世界では、2010年の調査によると、9万5000件以上のCPRのうち、1カ月以上生存した患者は8%に過ぎなかった。このうち、ほぼ普通の生活を送ることのできた患者はわずか3%だった。

 昔のように、医者が信ずるに従い、治療を行った時代とは異なり、今は患者の選択が基本だ。医師は、患者の意志をできるかぎり尊重しようとする。が、患者に「あなたならどうしますか」と聞かれると、医師は答えるのを避けてしまうことがよくある。我々は、弱者に意見を強要したくない

 その結果、むなしい「救命」治療を受ける人が増え、60年前よりも自宅で亡くなる人が減った。看護学のカレン・ケール教授は、「Moving Toward Peace: An Analysis of the Concept of a Good Death(安らぎへの動き:良い死という概念の分析)」という論文のなかで、美しい死というものの条件をいくつか挙げ、なかでも「やすらか」で「抑制されたもの」であり、「終わりを迎えたと感じ」、「回りの人々や家族がケアに関わっている」ことが重要だと指摘した。現代の病院は、こうした点をほとんど満たしていない

 患者は、終末医療について書き記すことにより、「どう死ぬか」について、はるかに多くをコントロールすることが可能だ。大半の人々は、税金から逃れることはできないことはわかっているが、死は税金よりももっと辛い。アメリカ人の圧倒的多数が死の適切な「取り決め」をできないでいる

 だが、そうともかぎらない。数年前、60歳の私の年上の従兄であるトーチ(彼は、懐中電灯の光をたよりに家で生まれた)が発作に襲われた。結局、それは肺がんによるもので、もう脳に転移していることが判明した。週3~5回、化学療法のための通院など、積極的な治療を行って、余命は4カ月ということだった。

 トーチは医者ではない。しかし、彼は、単に生きる長さではなく、生活の質を求めていた。最終的に、彼は治療を拒否し、脳の腫れを抑える薬だけを服用することにした。そして彼は私のところに引っ越してきた。

 その後8カ月間、それまでの数十年ではなかったと思うくらい、楽しい時間を一緒に過ごした。彼にとっては初めてのディズニーランドに行った。家でゆったりと過ごした。トーチはスポーツ好きだったので、スポーツ番組を観て私の手料理を食べるのが大好きだった。彼は、激しい痛みもなく、はつらつとしていた。

 ある日、彼は目を覚まさなかった。3日間、こん睡状態が続き、そして亡くなった。その8カ月間の彼の医療費は、服用していた1種類の薬だけで、20ドル程度だった。

 私自身について言えば、主治医が私の選択肢を記録している。そうすることは簡単なことだった。多くの医師にとってもそうだろう。大掛かりな治療はなし。やすらかに永眠する。私のメンター、チャーリーや従兄のトーチのように。また、数多くの私の医者仲間のように。
(ケン・マーレイ 元南カリフォルニア大学 家庭医学臨床准教授)

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コメント

厚労相も二割負担に出来なくて残念と言うほどですし、国として高齢者の医療費をしぼろうという意図で動いているのははっきりしてます。
それが終末期医療を考え直す機会になれば結果オーライですけど、例えば病院に送らず介護施設内で看取った場合に報酬をつけることができないでしょうか。
せっかく医療と介護を分離したのに、最後は相変わらずすべて医療任せでは負担が減った気がしません。

投稿: ぽん太 | 2012年3月 8日 (木) 08時54分

医療費削減に結びつけたいなら家族の希望でやれるようにしないとダメだろうね
ただ仮に安楽死が認められても、高齢者からはそんなに希望者が出ない気もするんだが
それよりも今の自殺者の数を見るかぎり若い連中の方がよろこびそうだ

投稿: kan | 2012年3月 8日 (木) 11時02分

あまり表だっては出てこないですが、なかなか話が進まないのは根強い反対派がいるということなんでしょう>安楽死。
安楽死に限らず患者の希望とのギャップを解消するための立法が必要だと思います。

投稿: 管理人nobu | 2012年3月 9日 (金) 11時15分

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