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2012年3月 3日 (土)

「お前が言うな」という以外に何と言えと

信濃毎日新聞(全国紙の毎日新聞とは別メディア)と言えば、その独特な濃い主張でたびたび問題を引き起こしたりもする地方紙ですが、昨今話題の大阪市教育基本条例に関してまたこんなことを主張していたと話題になっています。

斜面(2012年2月27日信濃毎日新聞)

小学校の担任はかっぷくのいい女の先生で、よくたばこを買いに行かされた。中学の先生は何かにつけて生徒をたたき、力で押さえつけた。隠れて酒を飲んだ生徒を居酒屋に連れ出し、飲み方を教えてくれた東京の高校教師もいた

大阪府が提出した教育基本条例案に照らすと、いま挙げた先生たちは真っ先に首かなと思う。けれど、子どもなりに先生たちの長所と短所を見つけ、人間くささを感じていた。同窓会では、素行不良だった者も優等生だった者も愉快げに教師との思い出を語る

大阪の条例は厳しい。校長の評価で「不適格」となった教員を指導し、改善がみられなければ免職にするとしている。さらに、3年続けて定員割れとなった高校は再編整備の対象とするなど競争原理を教育の場に持ち込んでいる

文部科学省と教育委員会を中心とする現在の教育制度に不満を抱く人は多い。いまのままでいいとは思わないが、教員を規則で縛ることで良くなるものではないだろう。格差の拡大、地域や家庭の教育力の低下といった幅広い問題に目を配らなければ、教育再生の道筋は見えてこない

府知事の決める教育目標に従い、先生が評価を気にしながら生徒の尻をたたく。ピリピリした教育のしわ寄せを受けるのは子どもたちだ。先生たちが気持ちにゆとりを持って個性を発揮してくれるほうが、学びも豊かになるに違いない。

いやまあ、信毎さんが同条例に対してどのようなスタンスをお持ちであるかはご自由にというところなんですが、批判するにしてもそれはさすがに自由すぎて例が悪いのではないかと言う声が多数派であるようですね。
同条例に関してはもちろん賛否両論あるところですが、まさしく信毎さんがおっしゃるように教育に○○は馴染まない式の反対論によって何一つ抜本的な改革も行われないまま旧態依然の教育が続いてきたことが今日の教育崩壊を招いているとすれば、一地方において改革のモデルケースとしてまずは変革を目指していくという方法論はありだと思います。
同条例に関してはそれとしても、マスコミの中でもとりわけ新聞というメディアは古くから歴史と伝統を持っているという意識が強いのか、どうも近頃では世の中の空気を捉え切れていないのではないかとも疑うような論調が目立ちますけれども、人間にしろメディアにしろ昔の話ばかり繰り返すようになると歳をとったということなのでしょうか。

発信箱:創刊140年余聞=伊藤智永(ジュネーブ支局)(2012年2月29日毎日新聞)

 日清戦争の外交を指揮し、「カミソリ大臣」と恐れられた明治の外相・陸奥宗光は、大変な愛妻家だった。ロンドンに留学中、英国女性が物知りで話し上手なのに感心し、日本にいた妻に手紙で勧めている。

 「あなたも歴史書などしっかりした本を読む傍ら、新聞で一通り今日の世間の有り様を知ることが必要です。東京日日新聞がよいでしょう。事件や花柳界のうわさ話ばかりでは実のある話はできません

 手前みそで恐縮ですが、毎日新聞の前身です。当時(1885年)まだ創刊13年。社説欄や政治論議が売り物だった。

 時に政府寄りと批判され、大衆紙に押され、道のりは平たんでなかったが、ともあれ新聞は草創期から、社会の動き全体を考える論点の提供に努めてきた。事実を伝え、興味に応えるだけが報道ではない

 国連で「アラブの春」1周年の討論会をのぞいたら、インターネットの役割が口々に称賛された後、こんな報告があった。

 革命の経過を丹念にたどると、ネットでの無数の発信は「今・ここ」の出来事を素早く生々しく伝えたが、人々が行動を起こしたのは、多くの場合、マスメディアが報じた全体状況の中で、それがどんな意味を持つかを知ってからだったという。

 思えば世の中の動きを、動いている端から全体として意味づけようとは、随分無謀な企てだ。間違いや失敗は数知れず、おごりや不明を恥じる例も多い。新聞紙はいずれなくなるかもしれない。それでも新聞の役割はなくならないと確信する
(略)

いやまあ、毎日新聞の場合はまず捏造ではない事実を伝えていくことこそ第一に求められているのではないかと思いますが(苦笑)、伊藤記者も言葉の端々に匂わせているように、新聞業界が順風満帆であるならばわざわざ歴史を紐解いてまで「新聞とはこんなに素晴らしいのだ!」と訴える必要もないでしょうし、まさに「事件や花柳界の噂」ばかりだからこそ存在意義が問われているのです。
特に記事中にも取り上げられている通りメディアが政治的行動に大きな影響力を発揮してきたのは確かですけれども、果たして彼らの言う「社会の動き全体を考える論点の提供」なるものが歴史的にどのような意味を持っていたのか、例えば先の大戦に至るまでの新聞諸社の報道と世論の動きを追っていくだけでもよく判ると思います。
そうした観点から近年のマスコミによる世論誘導の例として取り上げられるのが歴史的政権交代と言われた先の衆議院選挙ですけれども、さすがに世の中にこうまで「こんなはずじゃなかった」感が蔓延してしまうと彼らとしても「これぞ我々が世論を正しく導いた成果だ」といつまでも誇らしい顔はしていられなくなってきたようですね。

熱血!与良政談:新党のキモ=与良正男(2012年2月15日毎日新聞)

 この二十数年間、いくつもの新しい政党ができては消えていった。そんな中、候補者の大半が国会議員の経験のない新人でありながら大きなブームを巻き起こしたのは92年参院選と93年衆院選の日本新党だけだった。

 野田佳彦首相をはじめ民主党では枝野幸男経済産業相や藤村修官房長官、前原誠司政調会長ら、自民党では小池百合子元防衛相……と今や日本新党出身者が各党の幹部を務める時代になった。同党を創設した細川護熙元首相の評価は分かれるが、「政治家総取っ換え」を掲げ、自民党に多かった世襲議員でもない、旧社会党の主流だった労組出身者でもない新しい人材の受け皿を作った功績は大きかったと思う。

 で、橋下徹大阪市長率いる大阪維新の会はどうかという話である。既存政党への不信感、失望感の強さはあの時以上かもしれない。中央政界では最近、「今、衆院選をしても得をするのは大阪維新の会だけだ」という声を聞く。橋下氏本人が出馬しなくても大きな支持を得る可能性は高い。

 その手法はともかく、橋下氏が唱える首相公選制や2院制の見直し論など、もはや「誰が首相になっても政治は動かない。政治の仕組みを変えないといけない」という問題意識は私も共感する、と以前本欄で書いた。だからこそ大阪都構想がどう道州制につながっていくのか、あるいは首相公選制にどう行き着くのか、より具体的な道筋を示してほしいと思う。

 もっと重要なのは次期衆院選に300人程度を擁立するという候補者の選び方だ。「維新政治塾」には3000人を超える応募者があったそうだ。民主党の国会議員も応募したと聞くと情けなくなるばかりだし、入塾を断るのは当然だ。政治の劣化を食い止めるためにも、応募者の中からぜひ、有能な人材を発掘してほしいと切に願う。

 私たちは「郵政民営化」を叫べば自民党のほとんどの候補が当選した05年の衆院選と、「政権交代」への大きな期待の中で民主党が圧勝した09年の衆院選を経験した。そして「どうして、この人が国会議員に?」と疑問を抱く場面にも何度も出くわした。

 無論、そんな結果になったのは私たちメディアの責任も大きかった。単に「新しいから」とブームをあおるだけではいけないし、逆に「橋下氏は危うい」の一言で片づけるわけにもいかない。新党報道も新しい段階に入ったということだ。(論説副委員長)

いやまあ、今どき猿でも反省するという時代に政権交代こそ正義である!とその内実には全く無検証で煽り報道を繰り返した責任を「私たちメディアの責任も大きかった」の一言で片付けられては国民もたまりませんが、どうもこうした記事を読むだけでも彼ら日本の新聞というものは何かしら確固たる定見があって特定政党を支持(あるいは攻撃)しているのではないらしいという気配が見え隠れしますよね。
メディア毎にはっきりと自分たちのスタンスを打ち出している諸外国と比べると、日本のメディアは新聞に限らず(実態はともかくとして)表向き中立であることを標榜している場合が多いとはよく言われますが、諸外国のジャーナリストから見るとこうした日本のメディアの姿勢は何とも奇妙に映るようで、「客観性を口実にどっちつかずの態度を取ることは許されない」とばっさり切って捨てる人もいます。
「知性あふれる人材を多数そろえながら、ここまで非生産的なメディアも珍しい」とも言われるのは何より無定見の故か目的意識が希薄であって、自分たちの報道によって何をどうしたいというゴールを設定せず単にセンセーショナルに対象を取り上げることのみに終始する姿勢に由来するのでしょうが、このところ彼らのあまりに無定見な批判のための批判に対しては国民からも疑問の声が上がっていますよね。
総理がどこで飯を食っただの漢字を読み間違えただのということのどこに政治報道としてのニュースバリューがあったのか知りませんが、さすがにそうした無意味な重箱の隅つつきばかりというのはおかしいのではないか?という世論が無視出来なくなってきたのでしょう、今度はこんな言い訳めいたことを言い出しているようです。

発信箱:徴兵制と拘束衣社会=布施広(論説室)(2012年3月1日毎日新聞)

 大先輩の岩見隆夫さん(本紙客員編集委員)が「『徴兵制』を俎上(そじょう)に載せてみよう」と「サンデー毎日」(2月26日号)誌上で提案している。なるほどと思って読んだが、刺激的なテーマに反発する人も多かろうと考えた。すると、「拘束衣社会」という5文字が記憶の底から浮かび上がってきた。

 イスラエル・ヘブライ大の研究所にいた時、ツビ・ベルブロウスキーという高名な教授から教わった言葉だ。日本は規制や監視が厳しく、なにかと不自由で息苦しいといった意味だが、もちろん悪意はない。この大先生、大変な親日家で「照道」という僧号を持ち、お経も読む。自宅にお邪魔した時は着物にはかま姿で迎えてくださった。

 拘束衣を着たことはないが、言わんとすることは分かる。お天気お姉さんの異性関係を暴いたり、閣僚らの片言隻句を追及して辞任に追い込んだりするのも、この小さな国の酸素を薄くしていないか。「お前が言うな」というお叱りは覚悟の上だが、夏目漱石が「草枕」に書いたように「人のひる屁(へ)の勘定をして、それが人世だと思ってる」せせこましさがありはしないか。

 戦後67年、日本をアスリートに例えれば、筋肉がガチガチに固まった部分もあろう。特に安全保障の分野では「精神的な柔軟体操」、つまりシミュレーションや試論が不可欠だ。「真の平和」を考える「導入部」として、岩見さんは徴兵制に言及しておられる。未来を見渡せば、実は刺激的でも不穏でもない問題提起だと私は思う。

 外国では「日本核武装」をテーマとしたシンポジウムも見聞きするが、日本ではこの種の議論は珍しい。「軍国主義の足音が聞こえる」などと言う人が必ずいるからだろう。だが、論議を封じてはいけない。一番恐ろしいのは、ゆえなきタブーが自由な精神を拘束することである。

いや、さすがに上から目線でそういうことを言われても「お前が言うな」と返すしかありませんけれども、国中で誰よりも片言隻句を追及することに熱心で、何よりもタブーを形作ることに努力してきた方々が行うべきはこうした疑問文の形を借りた御高説を第三者目線で垂れ流すことではなくて、ごめんなさいもうしませんという率直な謝罪と反省ではないでしょうか?
今日はたまたま毎日の記事ばかり取り上げたような形になりましたが、同様の問題は毎日のみならず日本のメディア全般に見られることで、しかもこれだけ多数のメディアがありながらその全てが同じような「人のひる屁(へ)の勘定をして、それが人世だと思ってる」せせこましさにどっぷり浸かりきっているというのが国民にとっての不幸だというものでしょう。
政治、教育、あるいは医療などこの国では早いところ抜本的になんとかしていかなければ大変なことになりそうな課題が山積していますけれども、メディアという本来何らの生産性も持たない存在が社会にとって有益な存在になるか有害無益な存在になるかは、彼らが他者に求めるような改革を自らはなし得るのかどうかにかかっているように思いますね。

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