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2011年11月12日 (土)

必然的帰結として没落していくテレビ業界

先日から政治家とマスコミの関係がすっかり冷え切っているという話が続いていますが、そんな中で東京都議の土屋敬之氏もまたこんな発言をして注目されています。

【土屋たかゆきの真実はこうだ2】テレビ局社長の皆さん・番組をお孫さんに見せられますか(2011年11月6日YamatoPress)

最近と言うより、以前からだがテレビ番組の低能愚劣さは拍車がかかっている。特に最近は。
「女子大生」と称する、およそ女子大生の見本とは言えない女性が多数出演。お笑い芸人がおもしろおかしく誘導する。誘導にのってかどうか知らないが、援助交際の話、複数、彼を作りそれがばれた話。高額なプレゼントをせしめた話などを得意満面に話す
それがゴールデンタイムに。

更に「公共放送」を自称するNHK教育テレビに銀座のホステスが登場。『生理用品まで買わすのが(客に)テクニックだ』と言った趣旨の話を得意満面に話す。これは深夜番組だが、「教育」と言えば教育だが、そんな教育は自分の金を使って「学習」するもので、公共放送が、それも深夜わざわざ、貴重な電源を使って流す内容ではない
セックスレス夫婦の問題もそう。朝、日中、これも公共放送NHKが流している。秘書が朝見て、私が昼見たと言うことは「再放送」していることになる

東日本大地震の折、天皇陛下にはわざわざ、テレビカメラの前に立たれ、哀悼とご激励のお言葉を国民に発せられた。ところが、その放送は、NHKが一度だけノーカットで流し、後は編集。民間放送では全て編集
国家の象徴たる陛下がマイクの前で国民に語りかけるのは、昭和陛下の時以来。極めて異例なことだ。雑誌「WILL」によれば、フランスでは何度となくノーカットの陛下の放送をテレビで流していたそうだ。
となれば、NHK、民間放送は、陛下のお言葉より、いかれた「おねいちゃん」の下世話な話の方が「大切」だと考えていることになる。

昔、森田健作(現、千葉県知事)や石原慎太郎原作の青春ドラマは根性、友情があふれていた。それを少年や青年は家庭で大人たちと見たものだ。
ところが近頃の学園ドラマはどうだろう。女教師、女生徒とSEXをして、妊娠する。服装は乱れ、ネクタイもきちんとしていない
それが「学園」の本来の姿と思って制作しているのか。

テレビ局の社長さんは、果たしてお孫さんとこうした番組を見られるか。見せられるか。もし可能ならお聞きしたいものだ。
私の推測だが、そうした富裕層の子弟は生活指導の行き届いた私立に行っている。つまり、自分の孫はきちんとした教育をするけれど、視聴率確保のためなら、国民の教育はどうでもいい。この子供たちがどんなふうに育っても関係ないと言うのが本音だ。
違うと言うのなら、お申し出いただきたい。ディベートをしようではないか。

ちなみに「陛下のお言葉より、いかれた「おねいちゃん」の下世話な話の方が「大切」だと考えている」NHKなどは犯罪発生率が民放と比較しても30倍以上。民間企業と比較するとなんと50倍以上ととてつもない数字を叩きだしていて、「不祥事のデパート」とも揶揄される異常な事態にようやく上層部も腰を上げる気配だと言うことですが、特に目立つのが盗撮事件で逮捕される職員が極めて多いことだと言います。
どうも銀座のホステスだのセックスレス夫婦だのという話題も彼らの関心が向かう先を手っ取り早く番組化しているだけじゃないか?と勘ぐってしまいそうですが、いずれにしてもあまりにテレビ番組の質がひどすぎないか?という声は別に土屋氏に限らず各方面から指摘されていることだと言いますね。
正直こうした番組を詳細に見聞したことがないもので、どの程度愚劣なものであるのかは何ともコメントしがたいのですが、ゴールデンタイムなどでもいわゆるバラエティーと言うのでしょうか、とにかく安く上げることだけを最優先にして作ったのが見え見えの番組ばかりということは全く珍しくなくなりましたが、やはりその背景にあるのは先立つものの乏しさという声があるようです。

テレビは他人のふんどしで相撲をとりすぎてはいないか?(2011年10月12日ガジェット通信)

バブルの時期を頂点にして、テレビの番組制作費は下がり続けている。その主な理由は、景気の低迷や視聴率の低下にともなうスポンサー料の減収などであろう。特に後者は深刻であり、いまやテレビを持っていない人や持っていても見ない人はかなり多く存在する

たいがいの情報はネットで得ることができる環境のなか、あえて人々に「テレビを見よう」というモチベーションを持たせることは至難の業である。私たちが「見たい」と思うような番組は、主にしっかりと取材をした上で放映される報道番組やドキュメンタリー、さらにはきっちりと作り込まれたバラエティ番組やドラマなどがあげられる。だが、しっかり取材し、きっちり作り込めば、それなりに制作費がかかってしまう。

無駄な予算を使う必要はないが、私たちが「見たい」と思うような番組にはそれなりの制作費がかかる。このまま制作費の低予算化に歯止めがかからなければ、テレビ局は「番組の質が下がる」「視聴率が下がる」「スポンサーがつかない」「予算が下がる」という負のスパイラルから抜け出すことはできない

なかには「お願い!ランキング」(テレビ朝日系)のように、予算がなければないなりに工夫をこらした番組もないわけではない。しかし、芸能人をひな壇に座らせ、海外の資料映像を買い付けて垂れ流したり、ネットに出回る動画を垂れ流す、いわば工夫のない番組があまりにも多い。番組の改編期にあたる10月の第一週に放映された各局の特番は、工夫のなさを象徴している。

筆者が愛読する「TV Bros.」(東京ニュース通信社)から、その手の番組を取りあげてみよう。10月2日の「世界ぶっちぎり映像6 秋の超新作大放出SP」(TBS系)、同3日の「世界まる見え!テレビ特捜部 秋の2時間SP」(日本テレビ系)、同4日の「超ド級!世界のありえない映像博覧会8」(フジテレビ系)、同5日の「ザ!世界仰天ニュース キレイになりたい!命懸け大変身ビューティー祭り!」(日本テレビ系)、同8日の「奇跡の笑撃ハプニング 超カワイイ映像とにかく見せますSP!」(TBS系)……。

日テレの番組に関しては、元のネタは独自ではないものの、独自取材や再現シーンの制作など、多少の作り込みは感じられる。その他の番組は、多くの場合、買い付けた動画や無料の動画をそのまま垂れ流し、ひな壇の芸能人が感想やらコメントやらを述べて終了。もはや番組制作で重視されるのは企画力ではなく検索力なのではないか、と思ってしまうほどの工夫のなさである。

そういえば、NHKも日曜の夜に「特ダネ!投稿DO画」なるものを放映している。また、平日の午前に放映されているフジテレビの「知りたがり!」には、その日の5時~9時くらいまでに他局で報じられたネタをそのまま使うコーナーがある。それを言いだしたら、NHKとテレビ東京を除くすべてのキー局が、朝の報道番組で「新聞記事の紹介」を内容の中心に持ってきている。そんなことをやっていたのは、当初、テレ朝の「やじうまテレビ!」くらいだったのに。

制作費が低下しているなか、他人のふんどしで相撲をとることに関しては仕方のないことだとは思う。とはいえ、自助努力がないまま他力本願の番組作りを続け、つまらない番組ばかりを垂れ流していたら、番組制作の負のスパイラルは深刻化する一方となる。くわえて、この負のスパイラルの一因がテレビ局正社員の馬鹿高い給料と番組制作会社スタッフの低賃金という歪んだ関係にある、と筆者は考えているが、その件はまた別の機会に。

実のところお金がないから質が悪い番組しか作れないというのは制作側の言い訳としては非常に通りやすいのかも知れませんが、それでは幾らでも湯水のごとくお金が使えたとも言うバブル時代の番組がそんなに素晴らしかったかと考えて見るといいかと思います。
ドラマなどのヒットで単に今のような視聴率低落が目立たなかっただけで、番組の質自体は別に特別感銘を受けるようなものであったとも思えませんから、要するに金がないから良い番組が出来ないなどというのは単なる彼らの言い訳にしか過ぎないのでしょう。
その背景にあるのは巨大な組織にふくれあがってしまったテレビ局側の正社員が相も変わらず高給を取っていて、その原資として良い番組作りのために必要だという名目で少しでも制作費を多く手にしたいという事情なのでしょうが、そのお金も実際には制作会社ではなく彼ら正社員のポケットに収まるのですから馬鹿げた話ですよね。

新しいアイデアや工夫に満ちた番組がないからつまらないのかと言えば、ラジオなどはネタ切れという感覚がとっくの昔から聞いている側にもやっている側にも共通認識としてあると言いますが、その一方で運転や仕事をしながらの「ながらで聞ける」というストロングポイントを自覚した上で、いつでもどこでも安心して聞けるお約束に徹していくという開き直りもあるようです。
昨今テレビなどでもニュース解説番組などが人気だと言いますが、別にそこには何らの新しいアイデアも特別な工夫もこらされているわけでもないのに視聴者から喜ばれ視聴率も上がるというのは、要するにテレビ番組が作り手側の論理で作られ垂れ流されているだけで、本当に視聴者側の求める視点で作られた番組が極めて少ないという事実を端的に示すものでしょう。
例えば前述の記事のようなランキング番組というのは結局「スポンサー企業の商品を宣伝する場」にしか過ぎないし、芸人がぞろぞろ並んだバラエティー番組などは単に「売れない芸人の顔と名前を売る場」であるということを視聴者からも見抜かれている現在、そうした売り込みたい側の要素を外してしまえば何のおもしろみもない番組に誰が長時間付き合うだろうかということですよね。

日本のマスコミはことあるごとにネットを敵視し、ネットなどに染まっている連中は社会的危険分子だ!と刷り込みを図ろうとしていますけれども、生まれた時からゲームなどで自ら操作し行動することの楽しさに慣れ親しんでいる世代にとっては、ニコニコ動画などを始めとして自ら制作側として参加し、他人に提供するメディアが感覚に合うのかも知れませんね。
そういう観点から見ると当初から双方向性を前提として成立し、ある時点での視聴者が別の時点での番組提供者にもなり得るというネットに対して、幾ら多チャンネル化が進もうが不特定多数相手の放送というスタイルから脱し得ないテレビは最初から不利な競争を強いられているわけで、テレビの前にぼーっと座っていて何が楽しいの?と言う問いかけが出てしまう人たちを今からテレビ党に取り込むのは極めて難しいでしょう。
海外などではすでにテレビというメディアも先は見えているというのは常識であって、その先に何が来るのかというところに議論が進んでいるようですけれども、先日は例えばアメリカからこんな記事が出ていました。

テレビ離れが本格的に進んだ場合, NetflixやYouTubeは緊急時放送の義務を負うべきか?(2011年11月10日TechCrunch)

まず、昔話をしよう。昔々は、老いも若きも真空管の熱で暖を取り、送信塔を去ったときとまったく同じ順序でそこから放射される陰極線を、それが何であれ歓迎していた。きみがI Love Lucyを見ていると、なんと!、ぼくも I Love Lucyを見ているのだ。同じ時間に!。同じ回を!。そして彼らは、きみのうちでもぼくのうちでも、完全に同じことを同時にしゃべっているのだ!。そしてそんなぼくたちは、Chillすら使っていないのだ?!*。ばっかみたい。〔*: Chill, 音楽ではなくビデオのDJをするWebアプリ。〕

口うるさい人たちは、テレビは脳を腐らせる、人の成長を遅らせる、と言ってきたが、でも猛烈に熱心なテレビたたきの人たちにも否定できない強みが、テレビには古くからある。それは、どんな時でも、国民の大多数に何かを到達させられることだ。緊急時に、ドアのすき間に板を張り、窓枠にガムテープを張れ、と大衆に伝えたいとき、ほかに良い方法はない。

その後、DVR〔日本語: VTR〕という邪魔者がやってきた。緊急放送のときのための、配慮はなかった。そしてそれから、Netflixes、Hulus、Youtubesなどのオンラインストリーミングサービスがやってきた。目は、新たなやり場を獲得した。緊急放送のことなど、やがて、誰も気にしなくなった。でも、それでいいの?

この記事はやや大げさに書いているが(ほとんどの家庭にまだテレビはあるから)、でも、毎日少しずつ、ケーブル離れをする人たちは増えている〔訳注: アメリカでは、テレビを見ること≒ケーブルテレビを見ること〕。そこまでしない人たちでも、インターネット上でメディアを消費する時間が日に日に急増している。目と耳が新しいやり場を見つけたとき、というか、新しい日常的たまり場を見つけたとき、ストリーミングサービスは義務として、災害告知なども行うべきか?。20世紀前半のラジオと、後半のテレビに、緊急放送の義務があったように、NetflixやHuluなどすべてのストリーミングサイトが、その義務を引き受けるべきか?。それとも、大きなサイトには義務化し、小さなサイトには義務を免除すべきか?

しかしそれを実際にやるとなると、課題も問題も多い。ぼくみたいな技術者でない者にもすぐに分かるのは、任意の時点にストリーミングをやっているサーバの台数は膨大であり、しかもビデオの規格が何十種類もあることだ。10にも満たないキー局の番組に割り込むことのような、簡単な操作ではないだろう。

また、地域や場所が特定される緊急放送はどうするのか? 放送の場合は、IPAWSにも規定されているように、地域限定の対応が可能だ。でもインターネットに関しては、明確な地域境界がない。IPを位置情報でくくる手はあるが、あの、”ただ今あなたのお近くで260名の方があなたにお会いしたがっています”の広告が言う’お近く’は、半径150マイルぐらいある。使えない。

それに、ありとあらゆるセキュリティの問題もある。緊急システムに実効性があるためには、正規の組織や担当職員などではなく、住民の自主性に期待しなければならない部分が多い。しかし、あの賢いベンおじさんも言ったように、強大な権力には強大な責任が伴う(with great power comes great responsibility)。アイドルのビデオを夢中になって見ている人たちに向かって、15歳のぼくなら、真剣に、”たいへんです! 小惑星が地球に衝突します。地下室に2週間避難してください”と言うだろう。おそらくいちばん議論になるのは、今のインターネットには規制のようなものがなく、しかもそれがインターネットの偉大さであることだ。緊急時に関わる規制のようなものができたら、まずいことの始まり、と言えるかもしれない。

今のぼく自身は、インターネットの緊急時対応について、具体的な意見や考えはない。みんなで考えていくための、きっかけ作りをしたかっただけだ。衛星テレビが緊急時放送をやるようになったのは、やっと2007年だから、インターネットはまだまだ時間がかかるだろう。現段階では、早すぎる話題かもしれない。その衛星テレビですら、今朝(米国時間11/9)の試験放送は無惨に失敗していた。しかしそれでも、いずれは考えなくてはならないテーマであることは、確実だろう

技術的な問題点というのは過去にあった様々な問題と同様、いずれその必要が来てコストを投じることが認められれば解消されてしまうものだと思いますが、ここでは「脱テレビ化されたネット時代の緊急放送」という興味深い問題提起よりも、その背後にある状況に思いを巡らせていただきたいと思いますね。
ご存知のようにアメリカでは日本と違って極めて膨大なチャンネル数を誇るケーブルテレビがごく普通で、同時間帯の選択枝がたかだか数局で終わる日本と違ってもの凄くマニアックな番組や諸外国の原語放送なども含めて幾らでも視聴の選択枝があるのですけれども、そのアメリカにしてもすでにこの段階にまで話が進んでいるということです。
日本ではどこのチャンネルを回しても同じような顔ぶれのタレント達が同じような内容のお馬鹿番組を垂れ流しているといったことは全く珍しくありませんが、単純に好みに合った選択枝という点でも圧倒的にアメリカの状況に劣っている日本のテレビ事情を考えれば、アメリカよりもはるかに早いテンポでこうした議論を真剣に考えなければならない時代が来るだろうと思えますよね。

テレビ放送というものは各種の規制や免許によって雁字搦めになっていて、社会の規制緩和の必要性を事あるごとに訴えるマスコミこそ最も規制に守られた業界だとも言えるのですが、ネット上では彼らのアドバンテージなど全く存在しない、むしろ過去の悪行の数々を考えれば最初から大きなハンデを背負っているようなものであるだけに、彼らも今頃さぞや必死であり不安でもあるのでしょうね。
彼らがこのまま沈む船と一緒に静かに消え去っていくつもりなのでなければ、どこかで口を拭って自分達の過去の言動を裏切るような振る舞いに及ばざるを得ない時期が来るはずですが、彼らがそのときどんな突飛な言い訳をしつつやってくるのかが見物ではありますが(苦笑)。

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