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2011年4月 3日 (日)

今日のぐり:「割烹 美作」

今回の地震では市街地に押し寄せる津波の映像が全世界に向けて公開され、その圧倒的な破壊力が改めて示されたわけですが、その津波映像について先日以来「これは何?」とちょっとした話題になっていることがあります。
よく知られているこの動画のサークルで示された部分をよく注意して御覧頂きたいのですが、お判りになりますでしょうか?

【参考】【動画】¿Alien-Extraterrestre? UFO / OVNI-JAPON - (ORIGINAL HD) Terremoto / Earthquake - Tsunami - 2011

津波に押し流されていく家々に混じって、何か小さな白い点がもの凄い早さで流れに逆行しながら動いているのがお判りいただけますでしょうか?
いったいこれは何なんだと感じた人が多かったようで動画の再生件数はすごいことになっていますが、鶏だとか言う声もあれば猫だと言う声もあるようで、いずれにしろ無事に津波を乗り越えられたのかどうかが気になりますよね。
今回の地震では動物達も多くの被害を受けていますが、同時に奇跡の生還を果たしたという話もあちらこちらから聞こえてきているようで、とりわけ先日はこんな驚くべき生還を果たした犬がいたということです。

気仙沼沖漂う屋根に犬 海保、1時間後に救出/宮城(2011年4月1日日本海新聞)

 1日午後4時ごろ、宮城県気仙沼市本吉町の沖合約1・8キロの海上で、漂流していた屋根の上に犬がいるのを、第3管区海上保安本部(横浜)所属の特殊救難隊が見つけ、約1時間後に救出した。

 地元の第2管区海上保安本部(宮城県塩釜市)によると、同救難隊は東日本大震災の行方不明者を捜索するため海上をヘリコプターで飛行中に犬を発見。ヘリコプターから助けようとしたが、犬は海上にあった木材などに飛び移って逃げた

 隊員3人が救助艇で再度近寄り、最後は救助用の担架に乗ったところを助け出した。

 犬は黒っぽい首輪をつけていたが、飼い主の住所などは書かれていない。海保の巡視船の中でビスケットやソーセージを食べ、おとなしくしているという。

この期に及んで跳んで逃げ回るとはいったいどれだけ元気なんだよという話なんですが、何にしろ見たところ何の変哲もない犬のように見えて、よほどに体力も気力も充実していたということなんでしょうか?
奇跡の生還を果たした犬にちなんで、今日はこうした大規模災害の中でも頑張っている人々のお話を幾つか紹介したいと思いますけれども、驚くべき物語も数多くある中で一瞬の判断が多くの人々の生死を分けたというこちらの話から紹介してみましょう。

迫る濁流、間一髪 巡査2人が40人救う/福島(2011年3月29日産経ニュース)

 すべてをのみ込んだ濁流はすぐそこに迫っていた。東日本大震災による津波に電車ごとのみ込まれた福島県新地町のJR新地駅。約40人の乗客の命を救ったのは、偶然乗り合わせた2人の巡査の連係プレーだったことが28日、分かった。

 3月11日、新地駅に到着した常磐線の電車(4両)が激しく揺れた。次の駅で降りる予定だった福島県警相馬署の斎藤圭巡査(26)、吉村邦仁巡査(23)はすぐに車内にけが人がいないか確認して回った。

 「大津波警報が出た」。乗客の男性の悲鳴が聞こえた。海からは約600メートル、すぐに津波が来る。近くの新地駐在所に詰めている吉村巡査はとっさにそう判断。西に約1キロの高台に避難誘導することを提案した。

 「津波が来ます。安全な場所まで避難します」。吉村巡査を先頭に乗客が列をつくる。最後尾の斎藤巡査が足の悪い高齢女性に付き添い、高台へと歩き始めた

 約10分後。列から離されていった斎藤巡査はすさまじい音に後ろを振り向いた。たったいま歩いてきた道も、駅も見えない。代わりに見えたのは濁流にのみ込まれる民家と車だった。津波は200メートルほどに迫っていた。

 逃げるように走ってきた軽トラックを止め、付き添っていた女性を助手席に乗せ、自ら荷台に乗り込んだ。高台で吉村巡査と合流し、乗客全員の無事を確認したのは約30分後だった。

 27日に2人は地震後初めて新地駅があった場所を訪れた。4両は2両ずつ切り離され、1両はくの字に折れ曲がっていた。斎藤巡査は思わずつばをのみ込んだ。「少しでも判断が遅れていたら助からなかった」-。

後に残された電車がどういうことになっていたか、記事の写真を見るだけでも間一髪という状況がお判りいただけるかと思いますが、迫る生命の危機の中でよく適切な判断を行えたものだと思います。
福島の原発で作業に当たっている現場の人々も「1日2食で朝食はビスケット、毛布1枚のみ支給、すし詰め状態で雑魚寝」なんて厳しい環境の中で頑張っているということが報じられていますが、今回の地震でありがたいことだと感じるのは、真っ先に国外に脱出していてもおかしくない外国人の方々も現地で一生懸命汗を流し、遠くにあっても支援の手を差し伸べてくれているということでしょうね。

「私たちも逃げない」米軍家族ら孤児院支援を継続/青森(2011年3月28日産経新聞)

 【ワシントン=佐々木類】東日本大震災の被災地などで米軍による救援活動「トモダチ作戦」が続く中、米軍艦船や航空機を使ったハード面の支援とは別に、米軍人の家族らが震災孤児の救済などに汗を流す草の根支援も広がっている

 大地震と余震、原発事故の被害から逃れるため、米軍人らの家族数千人が帰国するなど自主的に退避する一方で、日本にとどまり、児童養護施設で孤児の面倒を見続けている米国人らがいる

 青森県三沢市の米軍三沢基地に勤務する海軍士官を夫に持つジェミニ・サンフォードさんらだ。

 三沢基地に近い七戸町の児童養護施設「七戸美光園」(後藤辰雄理事長)では、地震発生当時、約40人の児童が生活していたが、震災後に親を失った孤児ら約30人を新たに収容したため、食料や衣類などが極度に不足した。

 米ラジオ番組「カイロ・ラジオ」(ワシントン州シアトル)に出演したサンフォードさんは、「震災後の22日に夫が美光園に駆けつけると、4日分の非常食しか残っていなかった。三沢基地に報告し、(以前から行っていた)支援を続けることが決まった」と語った。

 米軍家族には自主退避の許可が出ており、司会者からなぜ退避しないのかを聞かれ、「われわれが逃げたらだれが子供たちに食料を届けるの?」と答えた。

 美光園の男性職員は産経新聞の電話取材に「26、27の両日にも米軍関係者が施設を訪れ、昼食のとき、持ってきた弁当を子供たちと一緒に食べた。子供たちも喜んでおり、本当に感謝している」と語った。

米軍三沢基地は美光園と20年以上の交流があり、こうした信頼関係が今回の支援にも生かされたようだ。

 また、三沢基地に勤務する米空軍中佐の妻、ケリー・ウィンマーさんは震災後、米軍家族に衣類などの提供を呼びかけた。空軍広報によると、ケリーさんは「想像以上の物資が集まり本当に驚いた。少しでも友人の三沢市民のお役に立てればうれしい」としている。

 家族だけでなく、支援活動に当たる将兵からの寄付も相次いでいる。三陸沖に展開する原子力空母「ロナルド・レーガン」では、毛布やセーター類が1千着以上、ぬいぐるみ20個が集まった。ジャスティン・ハーツ少佐は「自分の子供にもらったぬいぐるみを提供した水兵もいた。日本の被害を聞いた子供から、そうしてほしいと頼まれたそうだ」と語った。

フィリピン女性、白河で献身介護 「私たちここに残る」/福島(2011年3月28日西日本新聞)

 福島第1原発事故を受けて在日外国人の「日本脱出」の動きが続く中、死者12人が出た福島県白河市にある特別養護老人ホーム「小峰苑」では、4人のフィリピン人介護士候補が「お年寄りを見捨てて去れない」と働き続けている。フィリピンの地元メディアも「介護のヒロイン」などと彼女らをたたえている。

 4人はルソン島中部ヌエバビスカヤ州出身の看護師メルセデス・アキノさん(27)、同島バギオ市出身の元NGOスタッフのジュリエット・トバイさん(27)ら。一昨年から昨年にかけて日本との経済連携協定(EPA)に基づいて来日した。

 アキノさんによると、故国の家族からは毎日のように「フィリピンに帰って来て」と叫ぶように電話がかかってくるが、「お年寄りがここにいる限り残る」と決めている。「おばあちゃんたちからチョコレートをもらったり、日本語の勉強用のノートをもらったりとすごく親切にしてもらっている。地震も原発も怖いけど私たちだけ帰国はできない」と話す。

 フィリピンでは高齢者を敬う習慣が根強く残っており、小峰苑によると、献身的な介護ぶりは「入所者にも非常に評判がいい」という。

 彼女たちはフィリピンのテレビ局ABS―CBNのニュースにもネット中継で登場し、フィリピンの視聴者にも感銘を与えた。

 彼女たちの悩みは日本語の勉強。日本で働き続けるには介護福祉士国家試験に合格しなければならないが「漢字がとても難しいし、今は勉強する余裕もない」

 EPAによって来日したフィリピン人介護士候補は、来年から試験を受けるが、今年2月に行われた看護師試験では、フィリピン人候補113人のうち1人しか合格できなかった。(共同)

英国人男性、帰国“拒否”「もう一度サンマを」/宮城(2011年3月27日スポニチ)

 福島第1原発の放射性物質漏れで外国人の帰国が相次ぐ中、帰国を思いとどまり、被災地の宮城県石巻市内に引き返した英国人男性がいる。石巻専修大准教授のリチャード・ハルバーシュタットさん(45)で、「仲間とサンマのぬたをもう一度食べたい」と話し、被災者支援を行っている。

 93年に来日し、学生に英会話を教えてきた。震度6弱の地震が襲った11日は大学の研究室にいたがケガはなかった。

 「この街の魅力は人に尽きる」。18年暮らした港町は第二の故郷。新鮮な海の幸をさかなに人々と酒をくみかわした。石巻のサンマは「トロサンマ」と呼ばれ、脂が乗っている。地元の食材に舌鼓を打つ姿に人々は親近感を覚えてくれた。

 しかし、5メートルもの津波が街を襲い、24日現在で行方不明者が1万人に上ると推定されるなど、同市は甚大な被害に見舞われた。良き相談相手だった金物店の夫婦は津波にのまれて亡くなった。遺体が見つかった車に日本酒を注いで手を合わせ、親友の冥福を祈った。

 「国外退避を手伝う」と在日英国大使館から17日に緊急連絡が入った。英政府は福島第1原発の半径80キロ以内からの退避を勧告。石巻市は退避勧告の対象外だが、津波の被害で電気も水もない。周りの友人は帰国を勧めてくれた。用意された車で18日に仙台市のホテルへ。震災後初めて見たテレビは、石巻市の惨状と住民の姿を映していた。「おばあちゃんたちは元気に生きていた。腰抜けの自分が情けなかった」。翌朝、東京行きのバスには乗らず引き返した

 現在は、石巻市内の避難所になっているホテルで、家族の安否確認に来る人の応対やトイレの掃除などをしている。「リーダー役も、力仕事も苦手。でも一緒にいれば何かの役に立つ」。立ち直った石巻で、仲間と再び飲み明かせる日々を楽しみにしている。

「兄弟の苦しみと同じ」 台湾の企業が被災地へ寄付/台湾(2011年3月27日佐賀新聞)

 東日本大震災を受けて多くの日本人が抱いた思いは、外国人の胸にも込み上げている。台湾の製薬輸入販売会社「順仁西藥行」が、取引先の「佐賀製薬」(本社・基山町)を通じて100万円を被災地に寄付した

 佐賀製薬に1枚のファクスが届いたのは震災から1週間がたった日のこと。順仁西藥行の張秋財会長(64)から「100万円を贈るので、佐賀製薬の名前で寄付して欲しい」という内容が記されていた。同製薬の村山シゲ子常務は「30年の付き合いがあるからこそ。誰にでもできることじゃない」と感心する。

 順仁西藥行は、点眼薬を製造している佐賀製薬から年間約10万個の目薬を輸入。東北地方との取引はないが、張会長らは7年ほど前に観光に訪れたことがあるという。

 従業員は15人。決して大きな企業ではないが、「地震による日本の困苦は、自分の兄弟が苦しんでいるのと同じ」と支援を申し出た。電話取材に応じた張会長は「テレビで毎日震災の報道を見ている。台湾からも応援しています」と話した。

 思いを込めて日本語でしたためたファクスの最後はこう結ばれている。「天佑(天の助け)日本国 日本人頑張て」。

当「ぐり研」でも過去に何度も紹介しました通り、控えめな言い方をすれば決して積極的に推進されてきたわけでもない外国人看護師受け入れ制度でありながら、こうまで頑張っていただいている姿は全く頭が下がりますし、台湾などもあんな小さな国でありながらアメリカなどよりも多い「桁外れ」な支援金を送っていただいているというのは、本当にありがたい話だと思いますね。
となればいたずらに下を向き自粛自粛と閉じこもるばかりでなく、日本人としてはこうした世界からの暖かい心遣いに応えるべく、一刻も早く被災からの復興を目指していくことこそ何よりの恩返しになるということでしょう。
日本が無事に復興を果たせるのか、それとも折からの不景気とも相まってこのまま「貧しい国」になってしまうのか、様々な予測が入り乱れていて未だ何とも言い難いところがありますけれども、被災地から遠い人間も全力で復興に協力する気持ちは同じであるはずですし、何より当の被災地の方々の心は未だ折れていないということは強調しておきたいものです。

「1・17」生まれ、15歳の心意気 「町は僕らが立て直す」/宮城(2011年3月27日産経ニュース)

氷のように冷たい水に何時間もつかりながら、津波に襲われた車からお年寄りを次々と救い出した少年がいる。東日本大震災で死者が2000人を超えた宮城県石巻市。助けを求める声を聞き、われを忘れて救助し続けた。少年は自宅を流され幼なじみも亡くし、温かい町が変わり果ててしまったことに落胆しながらも、阪神大震災のちょうど1年後の「1・17」に生まれたことに今、宿命を感じている。「若い僕たちが立ち上がらないと。町の復興も僕らがやります」。(藤原由梨、写真も)

 石巻市の中学を卒業し、地元の水産高校に進学する菊地透也君(15)。自宅近くで買い物を済ませ、母の由理さん(43)が運転する車中に居ながら、激しい揺れがすぐに分かった。気付けば津波はすでに間近まで来ており、あわてて2人でやや高台にあるJR渡波駅に駆け込んだ。「振り向いたら車がおもちゃのように流されていて信じられなかった

 駅は海岸から約2キロ離れていたが、こぢんまりとした駅舎を取り囲むように濁流が押し寄せ、何人もが目の前を流されていった。駅舎にはすし詰めになるほどに大勢が逃げ込んだが、「助けて」という悲鳴にも誰も動けなかった。何もできないふがいなさと怒りがこみ上げてきた。

 水の流れが落ち着いたころ、駅前のロータリーに流れ着いた車数台に人影を見つけた。車の上にさらに車が積み重なり、危険な状態だった。

 身長170センチ、体重50キロのきゃしゃな体。由理さんに「大人に任せなさい」と制止されたが、覚悟は決まっていた。「自分がやらなかったら、死んでしまう」。ジャンパーにスエットという軽装のまま、胸まで水につかりながら車のドアをこじ開けた

 日が暮れてからは、誰かの持っていた懐中電灯の明かりだけが頼りだった。「車体が壊れてなかなかドアが開かない車もあったが、なぜかそのときは強い力が出た」。駅舎にいた人たちも手助けしてくれるようになった。高齢者を6~7人助け終えたとき、寒さで震えている自分にやっと気付いた。

 水が引いた翌日、避難所になっていた近くの小学校で、家族全員と再会できた。海に近かった自宅は土台しか残っておらず、周辺は半数以上の家屋が被害にあった。2軒隣に住んでいて「何でも話し合えた」という幼なじみの同級生の女の子は、自宅から1キロ以上離れた場所で遺体で見つかった。「あいさつをすれば言葉が返ってくる温かい町が、震災を境に寂しくて悲惨な場所になってしまった」

 震災から1週間後、「お礼を言いたい」という高齢者のメッセージを携えて市職員が避難所に訪ねてきた。「そんなつもりで助けたのではない」と直接会うことは断ったが、助けた人が自分を覚えていてくれたことがうれしかった。そして、阪神大震災からちょうど1年後の平成8年1月17日に生まれたことを今になって意識するようになった。

 「阪神大震災もみんなが力を合わせて復興したんですよね。この町も僕ら若者が立て直します」。避難所で炊き出しなどに走り回るボランティアをみて、将来は困っている人を助けられる人間になりたいと心から思っている。

被災地から遠い人々も、様々な形で復興を支援し、エールを送り続けることは出来ると思います。
頑張ろう、日本。

今日のぐり:「割烹 美作」

岡山市内の繁華街の中程にありながら、通りから少し裏の路地に入った場所にあってなかなか判りにくい立地なのがこちら「美作」さんですが、おかげでこんな場所にありながらなかなか落ち着いた雰囲気の中で料理をいただけるようです。
ちなみに間口は狭く一見すると小さな店構えのようにも見えますが、奥行きが大きいことと縦方向にも広がりがありますから、中に入ると思った以上に広い空間があることにはちょっとした意外性がありますね。
おかげでよほどの繁忙期でもない限りは周りの喧噪に巻き込まれるということがないのがありがたいですが、しかしこの時期送別会などといったものも入っていておかしくない時期でしょうに周囲の通りからして閑散としているというのは、やはり折からの自粛ムードということと関係してのことなのでしょうか?
先日からの繰り返しになりますけれども、日本の伝統文化からするとこういう時こそ皆で賑やかに盛り上げて復興を祈念していくべきもので、皆がむしろいつも以上によく働きよく食べて世の中を活性化していかなければならないと思います。

今回全くの人任せにしていたので何が出るのかと突き出しの胡麻豆腐などをつつきながら待っておりましたら、どうやら鴨鍋をするという趣向のようで、大きな鍋で肉やら野菜やらを煮ていきますともはやこの臭いだけでもたまりませんよね。
鴨鍋では肉を食べるよりも色々と叩き込んだつみれがうまいと常々思っているのですが、軟骨などの歯触りも感じられるこちらのつみれもまた濃厚な味わいが楽しめるもので、じっくりと噛みしめるごとにうまみが染み出してくるのは嬉しいですよね。
鴨と言えばあの脂がまたいいんですけれども、このたっぷりと脂が出た出汁で食べる野菜がまたよろしいと言うことで、節制するつもりがなんだかんだと人の倍ほど食べてしまった気がするのはどうしたものなんでしょうね(ま、鴨の脂は不飽和脂肪酸が多いと言いますから…)。
少し残念に感じたのは、せっかくのこの出汁を残さず楽しむためにも最後は是非とも雑炊で!と行きたいところだったんですが、締めがうどんになってしまったのは何か少しばかり物足りないと言うのでしょうか、せめてこの出汁で蕎麦が食えたらどんなに良かったかと感じてしまうのは自分の心根が意地汚いということなんでしょうか。
ちなみに食後の口直しにイチゴのゼリーが出てきましたけれども、これだけ脂の濃厚な鴨のことですからシャーベットなりの方が良かったかなとも感じましたが、あまり色気のない鍋の後ではこっちの方が見た目に綺麗なのは確かですよね。

こちらはもうずいぶんと前に一度お邪魔したことがあって、その時はごく普通に会席などを頂いて特に斬新な内容もなく、まあこんなものかなとさして印象にも残らなかったのですが、改めて来店してみても特に独創性も創意工夫も目立たないですけれども、ツボを押さえたしっかりした味であるとは言えるかと思いますね。
自分などこういうお店は精神的敷居が高い事もあって一人で来るということが全くないものですから、どうしても集団でとなると出てくる料理の面では少なからず好みと違った方向性になってしまいますけれども、まだ寒さの残るこの時期にこうして鍋などつつくには悪くないかなと言う気がしました(ちなみに、鴨鍋はまだしばらくはやれそうだということです)。
接遇面ではそれなりの節度ある丁寧さと、気安く砕けたところのバランスが個人的には割合に好みの塩梅だったかなとも思うのですが、前述のような自粛ムードの中での営業努力もあるのでしょうが、我々の年代ですともう少し放置しておいてもらった方がいいのかなという気持ちも感じますね。
この時期こうして暖かくておいしいものをいただけるだけでもありがたいものですが、一方でこのあたりにもそれなりに名の知れた割烹や料亭は少なからずありますけれども、世の中がいつまでもこうした自粛ムードですと経営的にもずいぶんと厳しいことにならないかと心配になってくるのも確かでした。

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