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2011年3月 1日 (火)

無理な主張のし過ぎも困りますが、何も言わないのも困ります

本題に入る前に、先日は久しぶりに期待権という言葉を聞いたなと言う記事が出ていましたが、御覧になりましたでしょうか?

適切な治療受ける「期待権」訴訟、原告逆転敗訴(2011年2月25日読売新聞)

 医師が必要な検査を怠り、患者として適切な治療を受ける「期待権」を侵害されたとして、山口県内の男性が県内の病院に損害賠償を求めた訴訟の上告審判決が25日、最高裁第2小法廷であった。

 千葉勝美裁判長は「期待権の侵害を理由とした患者への賠償責任は、医療行為が著しく不適切だった場合に限って検討されるべきだ」との判断を示した上で、このケースでは「医師はレントゲン検査を行っており、著しく不適切だったとは言えない」と指摘。300万円の賠償を命じた2審・広島高裁判決を破棄し、請求を棄却した。男性の逆転敗訴が確定した。

 判決などによると、男性は1988年、仕事中に左足を骨折、同病院で手術を受けた。その後、左足の腫れを訴えて97年に再受診したが、執刀医師は治療を行わず、後遺症が残った。2審は、医師が別の専門医に紹介する義務を怠ったとして期待権侵害を認めていた

骨折後10年たって後遺症を云々というのもいったいどういう話なのかという気もするのですが、判決文から経緯を見るとまあこれが最高裁まで行くというのもどうなのかという事例ではあったように思えます。

平成23年02月25日最高裁判所第二小法廷判決(医療事故における期待権侵害関連)

「本件は,上告人Y1が開設するA病院(以下「上告人病院」という。)において,同病院に勤務していた上告人Y2(以下「上告人Y2」という。)の執刀により,下肢の骨接合術等の手術を受けた被上告人が,上記手術による合併症として下肢深部静脈血栓症を発症し,その後遺症が残ったことにつき,上告人らに対し,(1) 上告人Y2は,必要な検査を行い,又は血管疾患を扱う専門医に紹介する義務があるのに,これを怠り,その結果,被上告人に上記後遺症が残った,仮に,上記義務違反と上記後遺症の残存との間の因果関係が証明されないとしても,上記後遺症が残らなかった相当程度の可能性を侵害された,(2) 仮に,上記因果関係及び上記可能性が証明されないとしても,上告人Y2は,その当時の医療水準にかなった適切かつ真しな医療行為を行わなかったので,被上告人は,そのような医療行為を受ける期待権を侵害されたなどと主張して,不法行為に基づく損害賠償を求める事案」

「前記事実関係によれば,被上告人は,本件手術後の入院時及び同手術時に装着されたボルトの抜釘のための再入院までの間の通院時に,上告人Y2に左足の腫れを訴えることがあったとはいうものの,上記ボルトの抜釘後は,本件手術後約9年を経過した平成9年10月22日に上告人病院に赴き,上告人Y2の診察を受けるまで,左足の腫れを訴えることはなく,その後も,平成12年2月以後及び平成13年1月4日に上告人病院で診察を受けた際,上告人Y2に,左足の腫れや皮膚のあざ様の変色を訴えたにとどまっている。これに対し,上告人Y2は,上記の各診察時において,レントゲン検査等を行い,皮膚科での受診を勧めるなどしており,上記各診察の当時,下肢の手術に伴う深部静脈血栓症の発症の頻度が高いことが我が国の整形外科医において一般に認識されていたわけでもない。そうすると,上告人Y2が,被上告人の左足の腫れ等の原因が深部静脈血栓症にあることを疑うには至らず,専門医に紹介するなどしなかったとしても,上告人Y2の上記医療行為が著しく不適切なものであったということができないことは明らかである。」

損害賠償を認めた二審にしても賠償額が300万と言いますが、これを見舞金的賠償と取るべきなのか、それとも平成12年にも最高裁までもつれた期待権絡みの訴訟での賠償金額も100万だったと言いますから期待権単独では元々この程度なのか、いずれにしても病院からすれば保険金で十分まかなえる額でしょうが、ともすれば早々に手打ちにしたがる病院も多い中で最後まで争ったことはよほど承服しがたい判決だったのでしょう。
ひと頃はブームのようになって全国の医療関係者をさんざんに悩ませることになったこの期待権訴訟というもの、幸いにも近頃ではずいぶん減っているようなんですが、最高裁において「当該医療行為が著しく不適切なものである事案について検討し得るにとどまるべきもの」という基準が明示されたというのは、結果としてよかったんじゃないかとも思えます。
ただかつての大騒ぎの余波が今も現場には濃厚に陰を落としているということなのか、少なくとも今日の医療現場において訴訟沙汰ということをまるで念頭にも置かないまま医療を行っている人はいないでしょうし、それが医療の内容そのものを大きく変化させてきている事実は否めないんじゃないかと思いますね。
例えば先日出ていたのがこちらの記事ですけれども、ひと頃さんざんスパゲッティ症候群だのと世間やマスコミからバッシングを受け、昨今では年寄りに無駄な医療費を使うなとお上からも厳しい指導を受け、何より普通に考えてそれは意味があるのか?と思えるような話であっても、やはり実際の現場になるとなかなか難しい判断になるのだということを改めて認識させられます。

末期認知症への人工栄養補給、医師の9割「判断困難」(2011年2月27日日本経済新聞)

 口で食べられない認知症末期患者の高齢者らに対し、腹部にあけた穴から管で胃に栄養分を送る「胃ろう」など人工的な栄養・水分補給を行うかどうか判断する際、約9割の医師が難しいと感じていることが27日、日本老年医学会の調査で分かった。終末医療のあり方を巡る医療現場の困惑が浮かび上がった。

 調査は昨年10~11月、同学会の医師約4500人を対象に郵送で実施。1554人から回答を得た。

 日本の医療現場では、人工的な栄養・水分補給法(ANH)として、胃ろうのほか、点滴や、鼻から通した管で胃に栄養分を送る方法などが実施されている。

 調査では、認知症末期患者に人工的補給を行うかどうか判断した経験があると答えた1058人のうち、16%が「非常に大きな困難を感じた」、46%が「ある程度の困難を感じた」と回答。27%が「少し困った」としており、約9割が抵抗を感じていた

 困難を感じた理由(複数回答)は、4分の3が「本人意思が不明」、半数以上が「家族の意思が不統一」と回答、患者本人の意向が分からない中で対応に苦しむ医師が多い。

 

補給を控えた場合の「倫理的問題」を指摘する人が半数、刑事罰に問われるなど「法的問題」との回答も2割に達し、延命重視を伝統とする日本の医療文化を色濃く反映する結果となった。

 いったん実施した補給を中止した経験のある医師は44%。理由として、うち7割が「下痢や肺炎などの医学的理由」を挙げた一方、「患者家族の強い要望」が4割、「患者の苦痛を長引かせる」「患者の尊厳を侵害する」との回答はいずれも2割前後だった。

 日本の医療現場では延命重視の伝統が根強い一方、回復の見込みのない末期患者への人工的補給には疑問の声も少なくない。同学会は「終末医療にも延命重視から自然なみとりまで多様な選択肢が必要」とし、今回の調査結果などを基に指針を作成する方針だ。

率直に言って医者からすればなんでもかんでもイケイケドンドンで積極的治療をやっている方が訴訟リスクも少ないし、病院にとってもその方が儲けが大きくなる(さすがに毎月注釈付きのレセプトばかりバンバン出していれば、いずれ指導が入るリスクはありますが…)、そして看取る家族にとっても親戚やご近所さんから「最後までよくしてあげたねえ」と褒められると誰にとっても丸く収まるんですが、果たしてそれでいいのかということですね。
いったん始めるとやめられませんよ、それでもいいんですかと口では言ってみるものの、医者と同様家族にしてもそれなりの葛藤はあるということなのでしょう、その場で「それではもう何もしないでください」と言える家族というものは滅多にいないと思うのですが、ではその結果誰がどう幸せに(あるいは不幸せに)なっているのかということも考えて見るべきなんでしょう。
ちなみに以前にも自力で食べられなくなればそのまま何もせず看取るという、「そもそも延命医療という考え方そのものが存在しない」北欧のやり方を紹介しましたけれども、日本人の目から見てずいぶんと違和感のあるこの実態を見ずして「寝たきり老人のいない夢のような国」などとヨイショしている人々は、北欧方式自体の是非はともかくとしてずいぶんと偏った議論を好む方々なのかなとは思いますね。
医療費も高いアメリカなどでもこのあたりは議論になるところなのでしょう、もちろん医療訴訟も非常に多いお国柄だけに一足飛びに何もせずというわけにはいかないのでしょうが、社会的、文化的背景から「無駄なことは極力やらない」という意志が働きやすいということなのでしょうか、例えばMassachusetts General Hospital(MGH)からこういう研究結果が出ているようです。

「認知症末期患者のビデオを見せて延命治療拒否の決断を促そう」とMGHのお医者さんたち(2009年6月5日Ashley事件から生命倫理を考える)より抜粋

(略)
そのMGHの研究者らがBMJに発表した研究によると、

認知症の末期の患者さんはこうなりますよ、
その場合の治療の選択肢はこれこれですよ、と言葉で説明するよりも、
実際の末期患者のビデオを見せて説明した場合の方が、
高齢者が終末期医療について「じゃあ安楽ケアだけでいいです」という選択をする確率が高かった。

よって、終末期患者の実像をビデオで見せることは
高齢者が終末期の選択をするのを“help”する(助ける・手伝う・支援する・促す……どれだ?)と。

研究で被験者に見せたのは80歳の認知症の女性患者が
明らかに歩けない、食べられない、家族とコミュニケーションがとれない姿。

被験者はボストン地域で病院にはかかっているが認知症状のない65歳以上の高齢者200人。

この女性の様子を言葉だけで説明されるグループと
女性の姿を撮影した2分間のビデオを見せられるグループに分け、
自分の終末期の医療について以下の3つの選択肢の中から選んでもらったところ、

① どんなにコストがかかっても延命して欲しい。
② 身体機能を維持するためのケアだけをしてほしい。
③ 痛みをとって最大限に安楽にするケアだけにしてほしい。

ビデオなしのグループでは、①14% ②19% ③64%

それに対して

ビデオを見せられたグループでは ①6% ②9% ③86%

6ヵ月後に同じ被験者に同じ質問をしたところ、
言葉だけで説明を受けたグループでは29%の人で気持ちが変わっていたが
ビデオを見せられたグループで気持ちが変わっていたのは、わずかに6%だけだった。

Video Can Help Patients Make End-Of -Life Decisions
The Medical News Today, May 30, 2009
(略)

特に興味深いのは言葉だけで説明をされたグループでは後に意志が変わる人が多かったのに対して、ビデオを見せられたグループではその割合が極めて少なかったということなんですが、まさに「だからあの時言ったのに…」という経験をされている先生方が全国で数知れないだろう中で、言葉だけの説明によって知らない人にイメージを伝えるのには限界があるのだと言うことを示すデータだと言えますね。
とりわけ現代の日本ではほとんどの方々が病院で亡くなっている、そして国民皆保険制度が半世紀続いた結果、医療は誰にでも安くが当たり前の認識となっていて末期のイメージが遠くなっていて、とりわけお年寄りの長期入院などは家で暮らしているより自己負担額が少ないなんてことを言いますけれども、そうであるからこそ気軽に「出来るだけのことを」なんてことを言えたりする背景があるのでしょう。
しかし一般に末期状態で本人の意思確認が出来ないという場合、最終的な決断は「どのような看取り方をしたいのか」という家族の意志に基づくことになりますけれども、こと認知症に関して言えば多くの場合はあらかじめ本人の意思確認が出来るという点で、「どのような死に方をしたいか」という自己決定権を行使しやすい状態にあるわけですから、言っておかなければ損だとも言えるんじゃないかと思います。

老人病院に長期入院しているような方はご家族にも長生きさせたいという気持ちがある方々でしょうから、いきなり「食べられなくなったからもう何もしません」というわけにもいかないのでしょうが、実際には亡くなる前までは結構普通に自宅で暮らしている、あるいは通所サービスや短期入所などを利用しながら何とかやっているという方も多いわけですよね。
そうした方々がたまたま肺炎などで入院してきた場合、ご飯が食べられなくなったからと安易に経管栄養に移行するのではなくて、やはりきちんと看取り方というものをご家族とも話し合い、これを行えば最終的にどうなるという情報提供をきちんと理解できる形で行った上で、それではどうしますか?と判断していただくのが筋なのではないかと思いますが、そうなっていない理由の一つは日本の医療の仕組みにもあると思いますね。
本来こうした認知症高齢者の対応は老人病院などが得意としているところですが、実際のところ救急車に乗っていきなりそうした施設に搬送されるお年寄りというものはまずいないわけで、そうなると送りつけられた先の急性期の施設にすれば多忙な上にこうした患者の扱いなど知らないわけですから、「何食べられない?それじゃとりあえず経管栄養でも始めて、後は慢性期の施設に転院してから」と機械的に処置を始めてしまっている場合が実に多いですよね。
こうして何もかも済んでしまったタイミングでお年寄りを送られてくる老人病院の先生方にしても、今さら「せっかく管を入れてもらってますけど、無駄だと思いますから抜きませんか」とは言い出しにくい道理で、かくして日本全国で日々機械的に人工栄養となる御老人方が量産されているというわけですが、それで誰が幸せになっているのかということです。

リビングウィルというものがひと頃から言われるようになりまして、突発する致死的急病であるとか事故であるとかに際してどうするかという意志をあらかじめ表明しておくということに関しては幾らか理解が進んできているはずですが、そうした事態に陥る方々よりもはるかに大勢の対象者がいるだろう認知症患者の老いという現象に関して、あまり意思表示の議論がなされていないというのもおかしな話ですよね。
そもそも高齢で認知症であるということは病気であるのかどうか、妊娠が病気でないのなら老いや痴呆もまた自然な経過の一つではないのかという意見もあるでしょうし、栄養摂取が不足すればとにかく栄養を入れなければならないという考え方の行き着くところ、将来的に循環や呼吸機能など身体の諸機能が全て代替できるようになれば人は永遠に生かし続けなければならなくなるのかという問題にもつながってきかねません。
医療を提供する側にしても誰しも「こんなことに何の意味が」と馬鹿馬鹿しく思っている、そして患者本人にしろ家族にしろ問答無用で一日でも長くという方々よりは、それなりの節度ある最後を迎えたいという方々の方が実際にははるかに多いのでしょうから、本音の部分ではお互いに相通じるものがあるとなれば、後はどうそれを実際の行動に結びつけていくかでしょう。
「後で訴訟沙汰になるかもしれない」だとか「遠い親戚から後ろ指をさされたらどうしよう」なんて気持ちももちろん根強いのでしょうが、こういうことは末端の現場からもどんどん問題提起をし、国や各専門団体なども積極的に何らかの指針を示していくべきでしょうし、何より国民一人一人も平素からその時をどう迎えるべきかを考えておくべき話なんでしょうね。

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