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2010年8月 2日 (月)

世の中善男善女ばかりなら話は簡単なんですが

先日ロハス・メディカルで面白い記事が出ていたので紹介してみますが、まずは冒頭部分から引用してみましょう。

赤信号みなで渡れば合法になる(2010年7月27日ロハス・メディカル)より抜粋

  3連休ど真ん中だった7月19日午後、都内で『市民と医療を考える1-川崎協同病院事件から医と法を考える』というシンポジウムが開かれた。自分や家族の死が避けられない状況になった時、私たちは医療にどこまで求めるのか。直球ど真ん中の問題を考える会になった。(川口恭)

川崎協同病院事件とは、同病院で医師が患者の気管内チューブを抜き、筋弛緩剤を投与して死亡させたとして、最高裁で殺人罪の執行猶予つき有罪判決が出た事件。シンポジウムの趣旨は、主催者によると『体に入っている管を抜いてほしいという家族の願い、死を迎えるならせめてより良い死に方を願う医療従事者の思い、積極的な治療の中断のタイミング、――医療現場で直面し日々悩んでいる問題である。川崎協同病院事件で司法が判断を下した。しかし司法界だけで結論が出る問題だろうか。もちろん医療界だけでは正解が出せる問題でもない。市民が望む死に方、そして医療者に患者や家族は何を求めるのか。司法界に丸投げしてきたことを反省し、タブー無き議論に挑んでみたいと、このシンポジウムを企画しました』とのことだった。

 前半は、須田セツ子医師の実兄である須田年生・慶應大教授が、兄の立場から事件の経過を説明し、「東海大安楽死事件で司法から示された4条件を金科玉条のように扱っているが、もっと十分に議論する必要があるのでないか。市民がどうのこうのと言う前に、医療者がどういうコミュニティを作っていくのかが問題だ」などと述べた。

 続いて医師と弁護士の2つの資格を持つ大磯義一郎氏が「治療中止を医師主導で行うことはあり得ない。むしろ患者家族の手足となって役割を果たしているのでないか。司法が裁くことによって、患者家族の手足となりづらくなることも懸念される。それは国民にとってよいことなのか。また現行の刑法上有罪とするしかないにしても、それをそのまま機械的に行政処分につなげてはならない事例だろう」と述べた。

 3番目に登壇した小松秀樹・亀田総合病院副院長の発言は色々と感じる所が多かったので長めにご紹介する。
「医療と法は基本的に噛み合わない。法は原理主義的で適応性に欠ける。刑法は特に適応性が悪い。医療は事実からの帰納で自ら変わるので適応性がかなり高い。日本の刑法はドイツ観念論の系譜をひき、徹底した演繹構造。人間の生命の価値を無条件で高く評価する。医療現場の現実として、1人の人間の生命を最優先の価値とすると、残った人間の生活を脅かすことがある。人間は遅かれ早かれ必ず死ぬ。生命を救うことにあらゆる手立ては実際には講じられていない。適当なところで努力を止めているのが現実だろう。人間の社会は死を前提にできている。次々に人は生まれてくるのだから、死ぬ人がいないと社会が成立しない。これを直視すべきだ。最近『救児の人々』という本を読んで感銘を受けた。新生児科の医師は患児の生命至上主義にかなり支配されていて、徹底して努力をする。人工呼吸器の付いた子供が家庭に戻されると、多分2、3人付きっきりの生活になる。妊娠中絶が許されている国なのに、共存していけるのか。嚥下障害のある高齢者に対して胃ろうを設けたり経管栄養をしたりするのも、本当に必要なのか。私の父がこの状態になって、胃ろうは相談されたからやめた方がいいと言ったら、ほぼ強制的に鼻からチューブを入れられた。本人が嫌がって抜いたら、母親が見に行った時には管を入れられて手足を縛られていた。いずれにせよ、演繹的に考えるのでなく、個々の状況に応じて判断すべきで、何かまとめてどうこうというのはしない方がよいのでないかと思う。法と医療とでは、法の方が権力がある。法に頼らず、法に逆らわず、法と距離を保って、したたかに医療を守る必要がある。『赤信号みんなで渡れば怖くない』というのは病院では通用しないが、法には通用する。患者家族や医療チームの多数の人間の合意で事実を積み上げること、社会の認識の変化を促すこと、時間をかけて多段階で対応するということが必要だろう。何か規範を作ってもらって、それで解決などということは考えない方がよい」

 残る演者はあと3人。濱木珠恵・墨東病院医長は
「もう積極的な治療はないという説明をすることは未だに好きでない。しかし、きちんと引導を渡してあげないと、本人もつらい思いをするし、家族も暗い希望を持ち続けることになる。状況を引き受け、どういう死に方を選んでもらうかという芯を医療者は持っていなければならないし、本当は誰もがみな持っているべきだと思う。その感覚を法に規定してほしくない」と述べた。

 看護師の常松佳代子氏は、療養病床で実際にあった事例を元に
「もういいよ、痛いのはイヤだと言っていた患者さんの言葉を聴いていたが、しかしそれを看護記録に付けていなかったために、急変時に医師に伝えても聴く耳を持ってもらえず、恐らく本人が望んでいなかったであろう挿管・延命措置をしてしまい、看護師が葛藤に悩んだという実例がある。このようなことは起こりがちだ」と述べた。

 最後に登壇したのは須田セツ子医師の患者だという齋藤武敏氏。
「須田先生には、母親がお世話になった。あの世へ行くまで、一度も入院せず、88歳で大変幸せな逝き方ができたと思う。何か問題が起きた時には、大変に適切な判断をスピーディーにその場その場で付けていただいてありがたかった。何はおいても一番信頼できるお医者さんだ。医療界の皆さんにもお願いしたいのは、常に我々患者の目線に立った活動をしていただきたいということ」としめくくった。

小松先生も亀田に移られていたとは知りませんでしたが、いずれにしても演者の顔ぶれを見るだけでもなかなか興味深そうに思えるシンポジウムではありそうですよね。
この場の参加者は各人が各人なりに終末期医療というものに対して自分なりのビジョンを持っているでしょうが、その中で小松先生の言うところの「生命を救うことにあらゆる手立ては実際には講じられていない。適当なところで努力を止めているのが現実」という話も確かなのですが、問題はそこに何らかの基準があるわけではなく、個別に患者と医療従事者との関係で決めていくしかないだろうという話になってくるところだと思います。
きちんとそのあたりの作業を普段から突き詰めてやっている側の人間にすれば、ガイドラインなり法律なりで縛られてはたまらんと言うのも事実でしょうが、一方で必ずしも「常に患者の目線に立った活動」が出来ているとも言い切れない多くの凡人にとって、「そんなこと言われたって困るよ。俺にはそんな見切りなんて出来ないよ」なんて話にもなりかねませんよね。

このあたりは単に患者とのコミュニケーション能力の不足がどうというだけでなく、最後に登場した患者側の齋藤氏の言葉に表れているように、終末期医療というものは患者に向かって汗を流しているようでいて目線は実は後に残る家族に向いている、その場合に患者目線とはいったい何なのか、それは家族目線とどう違うのかという認識があまり公に語られて来なかったことも問題だと思います。
家族の側としては「さらぬ別れもなくもがな」と何でも出来るだけの事をと希望していても、患者本人からすれば人生で一番苦痛に満ちた時間をいたずらに引き延ばされているだけに感じているかも知れない、あるいは逆に「もうこれ以上は結構ですから」と家族はナチュラルコースを希望していても、患者本人は生に対する執着を捨てきれずにいるかも知れない。
例えば患者と長いつきあいがあったり、今までの同様の経過を辿った患者を多数診てみれば医者の側としては患者の心情に対してはある程度推理を働かせることが出来る一方、家族に対しては基本的に話してみなければどんな人かも知らないわけであり、そして後でトラブルになった時に訴えるのが家族である以上、医者の側としては最後には患者より家族の意志を尊重しなければ「あの先生は患者目線」という評価は得られないという矛盾があるわけです。

そしてさらに生臭いことを言えば、ちょうど世間でもミイラ化した遺体を三十年間抱え込んで年金を不正受給していたなんて話が出ているところですが、今どきどこに行っても老人を自治体病院に押し込めて、年金だ恩給だで家族が暮らしているなんて話はまったく珍しいことではありません。
それでも百姓仕事をしているとか食い扶持仕事をもっている上で生活の足しにというのであればともかく、昨今では無職の高齢ニートなんて方々も増えてきているわけですから、収入源である親が生きているかどうかなんてことはそのまま家族の明日の生活に直結するわけで、生活がかかっている以上「あそこの家族は何かあるとクレームばかりで」と言われるくらいに切実感があっても仕方ない話ですよね。
こうした場でディスカッションに参加しているような方々は言ってみれば性善説にたって医療を見ている側面が濃厚に感じられますけれども、世の中そうした方々との行き違いの中で裁判沙汰になっていくような事態ばかりではなくて、もっと生々しい背後事情がトラブルに結びついている場合も多いのだという現実も、また直視していかなければならないように思います。

いずれにしても医療従事者というものは人間相手の商売である以上、相手を見て対応することが求められる、自分の行為が患者目線なのか家族目線なのかといった区別の自覚もさることながら、時にはより深く相手の懐に入り込んでアピールすることも必要だろうし、逆に相手との間にきちんと距離を保つことこそ要求される局面もあるわけですが、そのあたりが個人の経験だけに依存してきたのは従来の医学教育上の欠点ですよね。
たとえ患者なり家族なりと良好な距離感を維持出来ていたとしても、しばしばそこに全くコンセンサスが成立していない第三者が乱入して全てをぶちこわしてしまうなんてことはままあることで、「そこへ遠い親戚が突然現れて」なんて話は日常的に誰しも経験しているところではないかと思います。
中でも究極的な第三者としてあげられるのが川崎協同病院事件などでも見られる通り、警察や検察が医者と患者の間に割って入ってくることだと思いますけれども、後半のディスカッションの中でこのあたりに関する幾つか興味深い話が出ているようですので引用してみましょう。

内田
「現場の医師としてはどうか」

濱木
「患者さんにとってよい方向に向くように仕事しているつもりだが、その時々の状況やバクグラウンドを共有しない人が入ってくるかもしれないと思ったら、普段から動きづらくなって、かえって患者さんによい方向で動けなくなる。正直イヤだ」

内田
医療そのものの方向も歪められそうだ」

大磯
イヤだから入ってほしくないというのでは理由にならない。警察という権力がわざわざ出てきて、それが国民の利益になるのかならないのかということを考えないといけない。この10年は明らかに警察・検察が不当に入りすぎていた。だからといって一切入るなというのはいかがなものか。殺人罪とか業務上過失致死のような医療を想定していない法律でやるから歪になる。どこまでやるべきか区分けする必要はあるだろう」

小松
「警察も法に従って動いているので、入るなと文句を言うのは気の毒な感じがする。検察もこの10年でもの凄く傷ついた。彼らの考え方の基本の、あるべき論にムリがある。別の決め方やルールが必要なんだろうと思う。医療者と患者がしっかり話をできるように、医療者の側でも自分たちで決めないといけない

医師であり弁護士である大磯氏の単に医療現場側の都合だけで語ってよい話ではないという指摘もさることながら、小松氏の「警察に文句を言うのは気の毒」「検察もこの10年でもの凄く傷ついた」という視点は非常に新鮮に感じられたという方も多いんじゃないかと思いますけれども、その解決策として何かしらのルールなり基準なりは必要である、そしてそれは法律でやるべきことではないというコンセンサスは成立しそうですよね。
厚労省と言えば昔から法律によらない局長だのの通達が多いことでさんざん非難もされていますけれども、教科書の記載もしょっちゅう書き換わるというくらい進歩と変化のスピードが速い医療の世界において、時に明治時代のものが未だに通用しているような法というシステムが対応困難であったという事情もあったわけです。
それならば一つの考え方として法律にはなるべく介入させないでやっていくというのもありだと思いますが、具体的に誰がどう管理をすべきかという点で話はまとまっていない、一方で法律できちんと「ここから先はok」という基準を示してもらわなければ困るじゃないかという意見もまた双方に根強くあって、話が錯綜しているのが現状であるということですね。

そして小松氏の言葉にもあるように、警察や検察にしても別にそんな医療の世界に好きこのんで手を出しているわけではないのも事実で、そうであるからこそ医療と司法というものはむやみに敵対的関係としてとらえるべきでなく、むしろ協力の道を探っていく方がお互い幸せになれるんじゃないかという考え方もあるということでしょう。
このあたりは幾人かの参加者が言葉を変えながら述べているところですけれども、結局司法とは法律があるからこそそれに従って活動する(と言うより、せざるを得ない)、そして法律を変えるのは国民が動き出さなければどうしようもないという側面があるわけで、何よりも人生がかかっている患者やその家族の側がもっと積極的に動き出してもいいはずなんですよね。

会場
医師が自律すれば司法の介入は防げるか。それを誰が担当すべきか」

小松
「司法の介入を防ぐためでなく、医療の質を高めることを自分たちでやりましょうということ。最近ずっと言っているのは日本医師会を改組して、そういう組織にしようということ」

内田
司法や警察、検察の判断は医療側でコントロールできることではないだろう。我々にできることは現場で行われたことが患者さんにとって適切なことだったか見ることだけ。我々がどうこう言ってもコントロールできないものはできない
(略)

事務局の松村有子・東大医科研特任助教
信頼関係がない場合、どうしてルールすらないのかと言われることが多い。医師の裁量をそんなに重視するのかと」

小松
「それに答えること自体が無理。お上頼みで誰かが決めてくれるべきというマインド
(略)
濱木
「ルールを要求するような人は、そういうものがあっても、今度はそのルールを気に入らないと言いそうな気がする」
(略)

会場
「患者は、どうしたら主治医を殺人者にすることなく、終末期に望んだことをしてもらえるのか。確実な仕組みがないではないか」

大磯
「現状の法システムでは、こういう手続きを踏めば刑法に問われないんですよというのはない。ただし、先ほど小松先生が言われた『赤信号みんなで渡れば怖くない』というのは確かに司法には通用する。法律は国民が決めるものだから、国民が皆で行動すれば法が変わる、運用も変わる。成文法だけで変わるものではなく、民意で変わるのが司法だ」

いずれにしても当座医療の世界で出来ることとして参加者から提案されてきた中で、その主体に関してはともかく何らかの自律的システム構築は必要であろうということ、そして医学教育というものをもっと変えていかなければ話にならないということに関しては、ある程度コンセンサスが得られたんじゃないかと思いますね。
自律的システムの主体として昔から弁護士会のように全医師が参加する組織が必要だとか言った意見は根強くあって、その一方でその中心として既存の日医という団体を持ってこようという声もこれまた根強いわけですが、失礼ながら特定方面に向いた政治的団体としても一部階層の代弁者と見られがちな利権団体としても、世俗的手垢がつきすぎた日医を使うというのもデメリットが大きすぎるんじゃないかと思います。
産科領域などでは倫理違反と認定されれば学会から除名なんて話を結構聞きますけれども、現実問題それで医者として活動するのに何かしら困るということもそうそうないようですから、このあたりは小さく専門領域でまとまってしまいがちな医者という人種に全科横断的な巨大組織が根付いていなかったことで、強制力を発揮するほど権力のある団体が存在していなかったことの欠点とは言えそうですよね。

しかし参加者の皆さんは真面目に医療と患者側の関わりを追求する中でこういう話を出してきているのは判るのですが、この医者の自律的なシステムというのは当然賞罰の権限とも直結するだけの強い権力を持つでしょうから、例えば昨今盛んに一部の人たちが主張する医師強制配置論などにも非常に使い勝手がよさそうなシステムだけに、仮に実現に至ったとしていつの間にか妙な思惑が入り込んで歪められていたなんて話はありそうですよね。
最近このあたりの強制力発揮というものに敏感になっている人も多くて、医療現場を改善するのではなく改悪する方向に乱用される権力だとしたら、そんなものは最初からない方がいいと考える声も出るだろうと予想されますから、いざ実現をと言い出すと総論賛成だが現状では反対といういつものパターンに陥りそうな気配も濃厚であるし、反対論を抹殺してでも拙速にやるべきことでもなさそうに思えます。
そうなると当座現場レベルで誰も異論がなく実行できそうなこととしては、臨床現場で各人が培ってきた実践的ノウハウをいかに教育現場にフィードバックするかということではないかと思うのですが、医療の本筋から離れたこういう話は表だって語られる機会も少なかっただけに、どう教育カリキュラムに組み込んでいくかが今後の課題でしょうかね。

こういうところのノウハウはインパクトファクターがどうとか症例数が幾らだとか、従来の医学の世界での指標では評価し難いスキルであって、むしろ普段昼行灯と呼ばれているようなタイプの先生こそ素晴らしいスキルを持っていそうで、いったい誰を講師に呼ぶべきかなんてところから議論していかなければならないのかも知れません。
しかし確かに経験とは時に極めて有用なものですけれども、自分は安全な場所にいる人たちが「いやあ君たち、百聞は一見にしかずだよ。ワッハッハ」なんてうまいことを言って、またぞろ何も知らない純真無垢な若者達を地雷原に送り出すようなことにならなければいいんですけれどもね(苦笑)。

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