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2009年12月28日 (月)

それなりに切実なのに、妙に及び腰な議論

少し前にこんな記事が出ていましたけれども、長くなりますが引用してみます。

延命時代 ~「死への要望書」波紋~(2009年12月23日朝日新聞)

院長様

 意思の疎通を図れなくなったら、呼吸器を外して死亡させて頂きたく、事前にお願い申し上げます。

 07年5月、千葉県勝浦市に住む照川貞喜さん(69)は、家族全員の署名捺印(しょ・めい・なつ・いん)とともに、要望書を病院に提出した。
全身の筋肉が徐々に動かなくなる難病「筋萎縮(きん・い・しゅく)性側索硬化症」(ALS)を患う。体が動かせなくなれば、延命治療をやめて欲しいと求めた。

 警察官だった照川さんが体の異変に気づいたのは、20年前だ。ある日、冷蔵庫を運ぼうとして腰が砕けた。
 「運動不足か」と思ったが、違った。手が思うように動かない、つまずいて転んでしまう。病院を訪ねて回り、ALSと診断されたのは1年半後だった。
 病状の進行は速かった。翌春、呼吸が不自由となり人工呼吸器をつけた。言葉を失い、やがて手足も動かなくなった。92年、自宅で寝たきりの生活が始まった。

 それでも外部との意思疎通に執念を見せた。指先、額のしわ、あごの力、動かせる部分を探しては、それに反応するセンサーを作って、自らの思いを伝えてきた。パソコンを駆使して著書も2冊出した。モットーは「体は不自由でも、心は自由」。
 しかし、残酷にも体は日々動かなくなる。「ある日、体の機能が一つ停止する。ショックですよ。それが、これでもかと何度も繰り返される。もう、後がない」
 脳も知覚も正常なのに、運動機能がすべて失われて「対話」ができなくなるときが、いつか訪れる。それをずっと恐れてきた。

 06年、パソコンを使って、思いをつづり始めた。1年がかりで仕上げた「要望書」は、9ページに及んだ。
 「意思の疎通もできなくなれば、精神的な死を意味します。闇夜の世界に身を置くことは耐えられません。人生を終わらせてもらえることは、栄光ある撤退と確信しています」

要望書を受け取った亀田総合病院(千葉県鴨川市)の倫理問題検討委員会は、1年近く議論を続けた。

 「生きて欲しい。技術進歩の可能性もある」といった慎重論も根強かった。だが、「自分が照川さんだったら」と考えたとき、反対できる者はいなかった。「(呼吸器を外しても)倫理上の問題はない」と、全会一致の結論を出した。

 しかし、報告を受けた亀田信介院長は、呼吸器を外すことを認めなかった。「呼吸器を外せば医師が逮捕される恐れがあり、難しい」。倫理面の議論をどんなに深めても、最後に法律の問題が高く立ちはだかった
 検討委員会の委員長を務めた田中美千裕(み・ち・ひろ)医師(43)は「照川さんの問題は、多くのケースと通じる」と話す。

 医療現場ではいま、医師が家族らに頼まれても、「捜査への恐れ」から呼吸器を外せないのが現実だという。
 射水市民病院などでの「事件」を受け、国や医学会などはどういう場合なら行為が許されるかのガイドラインを相次いで打ち出した。だが、どこからが「殺人」となるのか、境界はみえない
 田中医師は、医師だけでこの問題を考えることの限界を強く感じたと話す。「国のお墨付きがないと、100年かけても解決できない。でも、考えるのをやめてはいけないと思う。第2の照川さんは、すぐ出てくるはずだから」
   ◇
 いま、照川さんが動かせるのは眼球と右ほおだけとなった。「闇夜の世界」は、もういつ訪れてもおかしくない。
 「夫は生きがいをみつけ、呼吸器を着けて本当によかったと思っている、ねえ」。介護を続ける妻・恵美子さん(66)が話しかけると、「ピロピロピロ」とブザーが鳴った。照川さんの相づちだ。
 「その本人が、動けなくなったら死にたいと言っている。一度つけた呼吸器は外せないなんて変ですよ。長生きさせるだけが医療という時代じゃないと思いませんか」
 「ピロピロピロ」。部屋にブザーの音がまた、響いた。
   ◇  ◇
 命を延ばす医療技術が進む現代、患者や医師が描く人生の終わりと法が相いれない場面が出てきた。射水市民病院問題をきっかけに、医と法のはざまに揺れる現場を見た。(高野遼)

先日は「延命治療中止で医師に初めての有罪判決」という記事を書いたところですけれども、実のところむしろこうした事例で医師が刑事責任を問われることは極めて稀であるというのも事実ではあることは知っておかなければなりません。
法的処罰を過度に恐すぎてもいけませんが、基本的に医者としてもわざわざ余命を縮めるような行為を積極的にしたいわけでもない人間がほとんどでしょうから、ではやめときますかで終わっていれば話は単純なのでしょうが、それによってむしろ不幸になる人が増えてくるということであれば、未来永劫議論を避けるわけにもいかないでしょうね。

日本でこの種の議論が盛り上がらなかった理由として、何も積極的に手を下さなくても何年でも呼吸器につないで入院させておけばいいという日本の医療事情もあったのでしょうが、純粋に行為の法的側面だけを考えるとかなりグレーゾーンなんだろうなとは素人目にも思えるところですよね。
朝日新聞の記事「延命時代」の続報では臓器移植と無関係に脳死判断をしている勤務医は47%、そのうち人工呼吸器の中止を選択肢とする医師は4%という東大グループの調査結果とともに、法学者として早稲田大学の甲斐克則教授によるこんなコメントを掲載しています。

 地検は延命治療の中止=作為(積極的な行為)=殺人と形式的に考えず、呼吸器の装着から取り外しまでを一連ととらえており、医療現場の実態に即した妥当な判断だった。ただし、一方的な治療中止はあくまで殺人の可能性が残るので注意は必要だ。

 一般論で、延命治療中止のため医師が呼吸器を外すのは殺人か、と問われれば、「ボーダーライン上にある」と多くの刑法学者が答えるだろう。検討すべき点がいくつかあるからだ。

 まず、呼吸器外しと患者の死亡に因果関係があるか。

 因果関係がある場合、「正当な医療行為」に当たるかどうかが大きな論点だ。

 呼吸器外しが、正当といえるかは、その条件をめぐり学者の間でも考えが異なる。

 特に終末期医療において患者の意思表示がない場合を考えると、家族による患者本人の意思推定だけで十分か、といった点は賛否が分かれる。

色々な方々の発言から素人なりにこのあたりの法律家的見解というものに無理矢理な要約を試みてみますと、「呼吸器外しが医学的正当性のみによって法的責任を100%逃れ得るわけではないし、法的責任を問われるはっきりした判断基準も明示できない」ということになるのでしょうか。
いわゆる訴訟リスク問題や事故調議論とも絡めて医療と司法の関係においては過去にも(とりわけ医療側から)色々と言われてきた経緯がありますけれども、「どこから犯罪になるのか、はっきりした基準を示してくれ」「いや、それは無理だ」というお約束のやり取りはネット上のあちこちでもそれこそ数限りなく繰り返されてきました。
このあたりは例えば「どこまでの癌だったら100%治ると言えるのか、その基準を示してくれ」と問われた時の医者の答えを考えてみると概ね状況が想像できるかも知れませんけれども、たぶんこの程度ならほとんどの場合大丈夫だろうといった言い方はできても、100%と言われるとそれは無理、断言出来ないとしか言いようがない部分はあるんだろうとは思いますね。

さらに後日の続報では安楽死を合法化したオランダなど諸外国の現状についても言及されていますけれども、延命治療の中止を日本でも法制化するかという件に関して面白いのは、同紙の記事を読んでいるとむしろ患者側よりも医療側の方で慎重論が根強いように見られることです。
しかし朝日新聞にそうしたコメントを寄せているのはおそらく可能な限りの医療というものを追求していればよいだろう立場の東京医療センターの先生だったり、医療現場を代表する立場としていささかどうよ?と懸念される日医の意見だったりすることには注意が必要で、果たしてこれが現場医療従事者の一般的な意見なのかどうかは再検証が必要ではないかと思いますね。
先日は射水市民病院での呼吸器外しの件で外科医が不起訴となりましたが、当事者のコメントを読む限りでも行為自体の執行に迷いはないというだけに、少なくとも末端臨床家レベルでは訴追の脅威に怯えながら何らかの決断を下し実行に移している人々が一定数いるのだという現実はまず認めなければならないのでしょう。

呼吸器外した医師「今後も同じ選択をする」不起訴処分受け会見(2009年12月21日産経新聞)

 患者の人工呼吸器を取り外し死亡させたとして書類送検後、嫌疑不十分で不起訴になった伊藤雅之医師(54)は21日、富山県高岡市で記者会見し「検察の結論に納得している」と述べ、さらに「患者に一番いい方法だと家族と一緒に選択すれば、疑義が挟まれないようにして(呼吸器を外すという)同じ選択をする」とはっきりとした口調で話した。

 伊藤医師は終始落ち着いた様子。「ご遺族の方がこの4年間(捜査の)取り調べなどに耐えて、ご苦労さまでしたと言いたい」と、まず遺族を気遣った。

 人工呼吸器の中止については「救命できる、できないということだけが医者の務めとは思わない。助からない患者に何ができるかという志に基づく行為」と話し、家族がみとる中で死を迎える意義を強調した。

近年の日本では「命は何よりも重い」という認識でとにかくイケイケドンドンの積極的治療こそ至上命題化していた気配があって、このあたりの「引くべきところは引くべきでは」という素朴な疑問はどこかタブー視されていたようなところもありましたが、もともと地方などでは「お爺ちゃんの息が止まったみたいだから、朝になったら先生を呼びに行くか」なんて家庭レベルでのナチュラルコースによる看取りということが行われていた土壌はあったわけです。
現実に厚労省調査では余命六ヶ月以内と診断された時に延命治療を望まない人の割合が10年前の15.9%から37.1%へと急増していたり、「リビングウィル」登録を行っている日本尊厳死協会会員数が12万人を超えたりと、「場合によっては敢えて治療を受けない」という意志を表明する人々の数も着実に増えているわけですね。
患者も家族も延命処置の中止を望んでいる、医師もこれ以上の延命処置継続は意味がないと考えている、しかし法的処罰の可能性があるから誰しも望まない行為だけが延々と続けられているということであれば、これは医療リソースの問題を置いても患者本人の意志を尊重した医療という現代医療の流れに逆行している可能性があるとは言えるでしょう。

偉い先生方が難しい神学論争を繰り広げている間に案外現場の関係者の意識がずっと先を行っていた、なんてことがあるのかどうかは未だ断言できる段階ではありませんけれども、そろそろ誰も望まず誰も幸せにならないことは無理に行わなくてもいいんだという当たり前のことを社会的に広げていくためにも、その法的根拠を確定するための議論というものは行われてもいいころではないかという気がします。

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