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2009年12月18日 (金)

実態把握も重要ですが、それ以前に目指すところが大事なわけで

ちょうど昨日こんなニュースが出ていましたけれども、当たり前の常識のように思っていたことでも改めてこうして指摘されるとニュースになるものだなと思わされる話です。

医師不足:実態把握のデータ持たずに対策推進 厚労省(2009年12月17日毎日新聞)

 厚生労働省が医師不足の実態を把握するためのデータを十分持っていないことが16日、総務省の「政策評価・独立行政法人評価委員会」(委員長・岡素之住友商事会長)の調査で分かった。厚労省は医師が不足している地域や、当該地域での必要な医師数が分からないまま、医師不足対策を進めていた。原口一博総務相は同日、長妻昭厚労相と川端達夫文部科学相に調査結果を通知した。

 答申によると、厚労省は市町村ごとや診療科ごとにどれだけ医師や患者がいるかのデータは持っているが、市町村ごとの医師数と患者数を突き合わせていないため、どこでどの診療科の医師が足りないかを把握していなかった。全体の医師数も06年が最新で、しかも医師免許保有者という基準で調べているため、実際に働いている医師が何人いるかはつかんでいなかった

 このため、同委員会は医師1人が対処できる患者数の目安「医師配置標準」が実態に即しているかを確認できなかった。今の配置標準は、隔離中心の結核入院患者が多かった1948年に策定されて以来見直されていない。現在は、がんなど時間を要する治療が増えているにもかかわらず、配置標準が古いために医療の高度化に対応できず、医師の長時間勤務(平均週61時間労働)を招いている可能性があると指摘している。【石川貴教】

この問題も久しく前から言われているところで大事な指摘ばかりなんですけれども、例えば医師免許を持っているというだけで老健施設などに入所している御老人も医者ということにカウントされている一方、臨床を離れた研究者なども同じく医者扱いされていたりと、厚労省の言うところの医師数が臨床現場の実態とかい離しているとは以前から言われている通りです。
東京都などは医師数が多いというわりに医師不足問題が相変わらず言われていますけれども、ひとつには医療行政や研究に携わる医師免許所持者も当然ながら多いわけですから、実数として臨床医をやっている人間の数はどうかと考えなければ実態から遠い話になるのは当然ですよね。

医師数カウント以前にこの必要医師数というものをどう評価するのかということがまた難しいところだと思うのですが、例えば一般的に医者が一人増えれば病院にとって年間およそ一億程度の増収になると言われていますからまともな経営者なら一人でも多くの医者を抱え込もうとする、あるいは地域住民にしても「町立病院には皮膚科も耳鼻科もいない!眼科も小児科も週一回だ!」と訴える。
そういう医者に対する求人要求を全部医者が必要なんだとしてカウントしていくとそれはとんでもないことになりそうなんですけれども、客観的にどの程度のアクセスが満足されていれば医者が足りているとみなすのか、その指標をどう設定するのかというところでまず議論が紛糾しそうな気もします。
何の医者が足りない、何の医者が充足しているというのであれば、何をもって充足しているとするのかという判断基準を決めるということは、すなわち目指すべき医療水準を決めるということにもつながってくるわけですね。

過不足評価ということで一例をあげると、最近47ニュースで「医療新世紀」という小児救急の連載をしていますけれども、こういうのを見ると医療に対する要求水準というのはどこまででも天井知らずに高くなっていくものなんだなと感じさせられるものがありますよね。
高度医療機関がたくさんあればそれだけ救命率が上がる、それでは日本全国どこにでも高度医療機関をバンバン建てたらいいのかといえば、そういうものでもないのではないかと考えてみることも必要かも知れないということです。

「十分な医療あれば...」 事故死の7割、小規模病院 (2009年12月15日47ニュース)

 厚生労働省研究班の調査によると、2005~06年に全国の病院で亡くなった1~4歳の子どもは1880人いるが、うち、交通事故や家庭内での事故といった「外因死」は294人。その約7割に当たる207人は、1年間に扱う死者数が5人以下という小規模病院で亡くなっていた。
 研究班の大阪府立母子保健総合医療センターの藤村正哲総長は「十分な救命医療を受けられず、助からなかった子どもがいた恐れがある」と分析する。
 藤村総長は(1)医師1人当たりの負担が大きい(2)突然の発熱などの対処はできるが、生死を分けるような重い事例はほとんど扱った経験がない―と小規模病院の欠点を指摘。
 その上で「大学病院や総合病院に小児科医を集めて専門の集中治療部門をつくり、治療が難しい患者が中小病院に搬送されないよう、救急医療体制の構造そのものを変えるべきだ」と提言する。
 しかし、救急医療は手厚いスタッフや機器が必要で病院にとっては不採算分野。「現行の診療報酬点数ではまかなえない」との声もある。

もちろん医療水準は低いよりも高いに越したことがないとは誰しも思うところでしょうが、全国全ての人々が平等に最高レベルの医療を常時提供されることを目指して医療体制を整備していくことが正しいことなのかどうか、そもそも皆が最高レベルになった時点でそれはすでに最高ではなく標準でしかないわけですから、そこに天井知らずの医療需要の増大というジレンマがあります。
通常こうした要求水準の増大というものは他業界では料金などに反映されることでほどほどのところで落ち着いてくるもので、一食何万の高級料亭と一個100円のハンバーガーが世の中に並立し、各人値段と味を比較して程よい店を選ぶのが当たり前ということになっていますけれども、何しろ日本の医療制度というものは全国同じ医療を同じ値段で提供するというのがタテマエになっているから話がややこしいわけです。
同じ値段ならもちろん誰しも質が良いものを求めるのが当然、他人がいい医療を受けているのに自分はいい加減で済まされて許せるはずがないわけですから、こういう皆に平等な機会を保障された医療システムで最善を求めるということは、際限のない上昇カーブを描くコストとマンパワーを要するだろうとは誰しも理解できますよね。

これを唯一回避する方法論は医療に対する要求水準を常識的なレベルで留めておく、言い換えれば「ほどほどの医療」というものを積極的に評価することが必要になるかと思いますけれども、前述の記事中の藤村正哲先生を始め長年「地球より重い人命を救うためにはコストなど度外視して当然」という教育を受けてきた真面目で優秀な先生方(皮肉ではなく、事実世界に誇る日本の資産ですよ)にとって受け入れがたい話であることも確かでしょう。
この点で非常に面白いと思ったのが、日本よりもずっと多くの医者を抱え医療費も多く、一般的には世界でも医療資源に恵まれている国だと思われているアメリカで、現在進められている国民皆保険制度導入の議論と絡めてこんな意見が出ているというところです。

医師不足という“病気”の危機的状況を憂える(2009年12月16日日経BP)

 お医者さんがいなくなれば、困るのは患者だ。

 私はプライマリケアに携わる開業内科医である。いま議会で議論されている医療保険制度改革はどれも、私のような医師たちが、ピカピカの新しい保険証を持った新しい患者を何百万人も受け入れる心構えと意志があることを前提にしたものだ。だがそれは夢か、悪くすると悪夢だと思う。現実には、私のような種類の医者は近いうちに消え、ナース・プラクティショナー(NP、上級看護師)に取って代わられるだろう。

 現実的な医療保険制度改革がもし行われるとしても、米国における医師不足の拡大がその障害となる。民主党員でニューヨーク州選出の上院議員Charles E. Schumer氏は、上院の医療保険改革法案に対する修正案を提示した。これは一次レベルの内科医療と一般外科手術を学ぶことができる研修医ポストを新たに2000余り設置するため、今後10年間に20億ドルを拠出するというものだが、これも良くて一時しのぎにしかならない。

 2020年までにプライマリケアに携わる医師(家庭医、内科医、小児科医、産婦人科医)が4万人不足するとの米国家庭医学会の予測、そして一次医療を職業として選ぶ医学生の数が1997年以降すでに51.8%減少し、医学大学院卒業生のうちこのキャリアを選ぶ学生はわずか2%に止まっているという現実を考慮する必要がある。

 私のような分野の開業医が人気のない理由はよく分かる。医学生たちは、金になる治療方法をマスターして使えるようにならなければ、かさむ一方のローンをとても返していけないといつも私に話しているからだ。

 研修医ポストを増やしたとしても、教育ローンを完済し卒業後の地位が保証されない限り、こうした状況が変わることはない。だがローン返済の肩代わりや卒業後の就職支援策は、納税者にさらに何十億ドルもの負担を強いることになる。

 全米でのプライマリケア医の不足は医療そのものの不足につながり、これはいかなる種類の保険をもってしても補うことはできない。保健・福祉省によると、2009年3月時点でプライマリケア医が不足している地域は全国で6080カ所に上り、これらの地域には6500万の人々が暮らしている。これに対し、the National Health Service Corps(10万ドルの連邦奨学金か5万ドルのローン返済の肩代わりと引き換えに、2年にわたり医療従事者不足地域で勤務する一般開業医の組織)が供給している医療従事者はわずか3500人である。これでは400万人への対応しかできない。

 実は「2009年米国再生・再投資法」によってNHSCに3億ドルが投じられたことから、同組織は来年までに医療従事者を約7000人に倍増させるよう期待される。だが州のほぼ全域で医師不足の状態となっているネバダ、ニューメキシコ、モンタナ、ユタ、アラスカなどの州では、これもまた一時しのぎに過ぎない。

 近い将来に保険加入者の数を増加させたとしても、プライマリケア医を増やすための現実的な計画がなければ、私たち一般開業医はあっという間にナース・プラクティショナー(NP)に取って代わられるだろう。NPは、大学院で訓練を受け、医師から半ば独立して働くことができるナースのことである。

 残念ながら、現在働いている医師たちに、増え続けるNPを無理なく組み込む方法はない。なぜなら医療従事者と患者の関係は一対一であることが多いからだ。もし私がNPの行った行為を記したカルテにサインをしたとすると、自分自身が監督したわけではない行為に許可を与えることになる。言い換えると患者さんは──、医師の監督なしでNPが動いた場合、医師と同等の能力を持っているのかもしれないが、実はそこまでの訓練を受けたことがない人から医療行為を受けたことになるのだ。

 保健資源事業局が2004年に行ったサンプル調査では、全米のNPの数は2000年比で27%超の14万1209人であった。現在では15万人を超えている。

 全米に30万人しか医師がいないことを考えれば、これは非常に大きな数字である。そしてNPは今も増え続けている。

 多額の支出によって保険加入者を増やし、その分をメディケア(高齢者用医療保険)における何千億ドルもの支出抑制や、州政府の負担増によるメディケイド(低所得者用医療保険)の拡充によって賄おうとするなら、結果として医師や病院への診療報酬が大幅に削減されるのは明らかだ。したがって医師や病院が事業を継続しようと思えば、サービスを減らす一方で、これまでよりはるかに多くの患者を診察するしかない。NPの賃金は低い(平均賃金はプライマリケアに従事する開業医の約15万ドルに対して8万8000ドル)ので、彼らを活用して医師でカバーできない部分を補うことになるだろう。医師や病院は、NPを雇って患者を「業務委託」するわけだ。

 訓練された専門家しか使えないような最新医療技術が利用できるようになる一方で、医療の質は落ちていくだろう。NPも役に立つとは思うが、医学大学院での4年間と研修医として過ごした私の3年間にはそれなりの価値があるとも思う。一般開業医がいなくなれば、かつて患者たちが受けていたような診療もいずれ消えるのだ。

 医学博士Marc Siegel氏はニューヨーク大学ランゴーン医療センターの内科准教授であり、Doctor Radio(ラジオ局)の医療ディレクター。Fox Newsに医療関連ニュースを提供している。

かの国ではもともと自己責任という考え方が非常に強く、この皆保険制度導入に関しても極めて根強い反対論があるのは知られているところですけれども、例えば医療資源の乏しい田舎で暮らすということはそういう状況も込みで受け入れた上で自己決定しているはずであるという考え方が大前提にあるのですね(往年の映画「アドベンチャーファミリー」でもそういう描写がありましたが)。
日本ではまだ看護師の医療行為は制限されていて少しばかり事情が違うと考える人も多いかと思いますが、実際上記の議論や昨今の開業医切り捨て政策を見ても判る通り、この国においても高度医療を提供しない医者などひと山幾ら、適当に安く使い潰しておけば十分という意見が主流派となっているわけです。
しかし医療の実際(あるいは、ほとんど全ての仕事はというべきでしょうか)というのはほとんどの場合、誰がやっても大差ないような退屈な仕事の積み重ねで占められているのだということを、現場を経験した人間ほどよく知っているはずなんですけれどもね。

これも誰しも理解できることですけれども、華々しい最先端の高度医療の患者一人の背景にはその何十倍、何百倍という軽症患者がいるわけで、とすれば最高レベルの医療を提供する施設一つをバックアップするのにその何十倍もの後方施設が必要になってくる道理なのですよね。
厚労省は病院を統廃合し大病院に医師を集約化するという、財務省は開業医への金を減らし勤務医に回せという、それぞれもっともらしい話に見えるところではありますけれども、そうやって華々しくもなければ報酬面で報われもしない、ついでに世間からは「楽して儲けやがって」とバッシングされるような下支えの仕事を誰もやりたがらなくなったとき、世の中どうなるのかと時には想像してみるのも楽しいかも知れません。
実態を把握し適正値を算出しその達成を目標に政策を決定する、当たり前の行為ですけれども、どのような適正値というものを打ち出してくるかというあたりを見ていると、この国の目指しているところ、あるいは国策というものが見えてくるかも知れませんね。

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コメント

必要な臨床医から求める逆算と言うアプローチには同感です。

そもそも待遇を改善し、医師やその家族が人並みの生活を営めるように制度として計らってはじめて優秀な人材の集まる魅力ある職場になるのではなかろうか。 看護士にしても技師にしても同じではなかろうか。

それは即ち国民が医療と言うものを自分たちのこととして受け入れるということではなかろうか。 僻んだ連中の斜に構えた意見だけがメディアや政治家達に「面白ネタ」とか「政争の具」として用いられる本件だけど、本質って何かまじめに考えると多くの国民がその身に降りかかる(可能性の高い)災いを憂えて背筋を凍らせるんぢゃなかろうか。

コストの話だって、どれだけ政府が国庫からサブシダイズしていて、それでも「高い」と世論は思うんだろうか。 医療関係の話って我が国の歪んだ社会をそのまま表しているような気がするのはワシだけぢゃろうか。

投稿: ポン太 | 2009年12月18日 (金) 13時36分

いや表しているでしょう。
客商売において質的向上の努力は顧客満足度を上げるという目的達成のための一つの有力な手段になりますけれども、なぜか質的向上がいつの間にか目的化してしまうのが日本人のよく言えば職人気質、悪く言えば悪癖だと思いますよ。
不景気の影響もありますが一食何万円なんて高級店は閑古鳥が鳴いている一方で餃子の王将など大流行りだと言いますけれども、質的向上のみが顧客満足度向上の手段ではないという一例ですよね。
「こだわりの店」なんてそれなりに流行っているうちはいいですけれども、「俺はこんなに頑張ってるのに!この味が判らねえ客の方がおかしいんだ!」なんて逆切れするに至っては目的と手段を混同してしまっているというものです。

医療も質的向上を手段であり目的であるとする限り際限ない要求水準の増大を受け入れ続けるしかありませんが、もうその道は高度成長が望めないこの国では無理なんだという現実を受け入れて、別な目的とそれに見合った手段とを探すしかないと思いますね。
医療崩壊先進地とみなされているイギリスの方が日本よりはるかに医療に対する国民満足度が高いという話を聞くにつけ、日本の医療界も正しく目的と手段を峻別して議論すべき時期に至っているんじゃないでしょうか。

投稿: 管理人nobu | 2009年12月19日 (土) 07時58分

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