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2009年7月31日 (金)

結構ぶっちゃけちゃった人たち

今の時代あまりうかつなことを言いますと全国どこでも集中砲火にさらされる危険というものはあるわけですが、批判を恐れて何も実のあることを言わないというのも聞いている側としては面白くないものです(特にネタとして)。
ボケツッコミは国内一部地方の文化とも言うくらいで、周囲の人間との会話などを考えてみても、「はあ、そうだねえ」と相鎚を打つしかないような話の連続なんてものは熱が入らないもので、やはり「あんなナニ言うてんねん!」と突っ込みの一つも入れなければ言葉のキャッチボールにしても退屈ですよね。
学会などでも演者が突っ込め突っ込めと脇を開けて待っているのに突っ込まないのは野暮というもので、誰も手を挙げないならそれは座長の責任で突っ込まなければならないわけですから、ツッコミツッコマレることに過剰に神経質になる必要もない、むしろスルーこそ社会儀礼に反するという言い方も出来るわけです。

今日はそうした視点から最近の少しばかりツッコマレたがりの気配濃厚なぶっちゃけ発言の幾つかを拾い上げてみることにしましょう。
まずはこちら、今の時代世間的にはいわゆる一つの「爺医」と呼ばれてしまう世代からの提言です。

苛酷な勤務 最大の原因は医療界自身に(2009年7月26日ロハスメディカル)

第64回日本消化器外科学会学術総会の特別企画『消化器外科医の勤務環境改善のために何をなすべきか』(18日開催)で日本臨床外科学会会長の出月康夫・東大名誉教授が大変に踏み込んだ特別発言を行ったので、ご紹介する。(川口恭)

私が、医療の社会的な問題や経済的な問題に関わり始めたのは20年ほど前から。外科系学会社会保険委員会連合(外保連)という、元々は外科系の手術の診療報酬をいかに上げるか、どれ位が適切かということを学術的に研究しようという会の委員を数年やって、いろいろな矛盾があると気づいたのでいろいろと言い始めた。

4年前に『日本の医療を崩壊させないために』という本を出したのだけれど、それ以来、日本の医療崩壊が止まるどころか益々悪くなってきているのが現状と思う。最近になって、ようやく政治家も動き始めたし、マスコミもキャンペーンを張ってくれるようになったので、国民も状況をやっと理解し始めている。

今日の話の中心である勤務環境の改善は、医療崩壊を防ぐ一番大切なことだが、どうしてこんなことになったかは今日の話からも明らか。

ひとつの元凶は医療費の抑制。現在の診療報酬では病院の収支がマイナスになるというのは、皆が言い始めていることで、補助金とか助成金をもらっている病院は何とかやっていけるかもしれないが、それがないと確実に赤字になる。

病院は何をやろうと思っても結局はそこがネックになって何もできない。何が足りないかというと、診療報酬に対する原価計算がない。外保連で、それを 20年やってきて、やっと少し理解してもらえるようになったけれど、行政の人に言っても『私たちもそれは分かるんですけれど財源がないから上げられない』というのが決まり文句。

もうひとつは、これも今日話の出ていた医療訴訟・医事紛争の増加がある。患者さんと医者の信頼関係が随分と変わってきてしまったことが原因だが、これにはやはり行政・法律家・マスコミのポピュリズム・大衆迎合主義のために人々が喜ぶことを行う、それが本当に本質を分かって喜んでもらっているのならよいのだが、そうでなくて感情論で動いてしまう、そういうものをどんどん後押ししてしまう傾向が今までは少なくともあったという風に考えている。

そして、もうひとつ最大の原因は、医療界自体にあったと思う。特に日本医師会に大変大きな責任がある。病院の崩壊に対して、日本医師会が今まで何も手を打ってこなかった。加えて勤務医や私たち学会も何も言ってこなかった。私たち自身に責任のあることだと思う。

ようやく診療報酬を何とかしよう、医事紛争を何とかしようという機運が出てきたが、でも学会の中だけでやっている限りマスターベーションに過ぎない。やはり外に向かってこういうことを分かってもらう、国民に現在の医療の状況を理解していただく、それを医師1人1人が、あるいは学会がもっと積極的にやらなければならない。

今のような状況で、私たちが卒業したての頃だったら、医師のストライキが確実に起こっていたと思う。そういうこともある程度考えないといけない時期に来ているのだろう。診療を拒否しろと言っているのではなく、やはり私たちの状況を社会に対してアピールする時には、その前提として医師が何らかの行動を起こしている必要があるということだ。

そうでなければマスコミにも分かってもらえない。『先生方そういうことを言うけれど何もしてないじゃない』と言われてしまうのがオチ。昔、学生の時代にストを打って宮城前を駆け回ったのと同じように何らかの行動を医師はきちんと示さなければいけない。それが国民に現状を理解していただく最大の手段だろうと思う。

それから過重な労働を避けるためにどうしたらよいか、の一番手っ取り早いのはワークシェアリングというか、コメディカルの方や医療事務の方に仕事を分担していただいて、医師は医師でないとできない仕事に専念するように。そのためには法律の改正も必要かもしれないし、それに医師が反対するようでは困る。他の職員の方の権限を拡大しようとすると日本医師会は非常に警戒する。しかし、それは間違い。

今やアメリカを見ても世界を見ても、医師に雑用、雑用といったら申し訳ないけれど、医師以外がやってもよい仕事をさせているのは日本だけ。そういう職種を医師としても育てていくということを皆でしなければいけない。それにもし医師会が反対するようなら医師会を蹴飛ばせばよい。

それ位のことをしないと日本医師会は非常に強固な組織だから。医師会の執行部には病院の人は1人もいない。開業の先生、地方の医師会の会長がなる。もし日本医師会をこのまま認めていくならば、我々の意見を代表してくれる方に入ってもらうよう組織のありかたを変える必要がある。

それから医療紛争の対処にあたるために3年ぐらい前から医療安全委員会というのが議論されているが、厚生労働省から出てきた案は非常におかしい。そういうものを厚労省の中に置こうというのだけれど、自分の決めた医療制度を批判することはできないはずだ。それから、その検討会の座長は刑法学者だ。刑法とは、誰に責任があって、それをどう追及するかという話で、そういう人が座長をやれば、責任追及が原因究明や再発防止より優先されてしまうのが当然と思う。

あの組織は、もう一回全部解体してやり直すということにしないと我々の意見は通らない。あの検討会の中には3人医者がいるけれど、厚労省には何も言えないかあるいは日本医師会を代表する方々だから、やはり勤務医を代表する、しかもお上の息のかかってないような実質的な方を委員に選んで、もう1回医療安全委員会というものをどういう風にしたらよいのか考え直してもらいたいというのが私の希望。
(略)

ロハスの川口記者が言うところの「大変に踏み込んだ特別発言」というのが何にどう踏み込んでいると言っているのか今ひとつはっきりしないんですが、文脈から見ると医師会批判というのが一番のポイントということになるのでしょうかね?
仰るとおり医者がもっと声を出していけというのは舛添大臣も言っていることですからどんどん言わせてもらえばいいわけですが、医師達がいくら医師会を蹴飛ばしたところで国として公に医師の代表団体として認めているのが医師会だけであって、現場の医師の声がスルーされっぱなしという現状が変わるわけでもないという点は同氏も指摘するところですよね。
もし行動に出ろと言うのならまず本当に現場の医師の声を拾い上げていかなければ医療崩壊という現象に対して何ら意味はない議論になってしまう可能性が大ですから、それこそ文字通り医師の団体であるところの学会などが音頭を取って動いてみるというのもありだと思うところですが、同氏のような学会の主導的立場にある人が他人事のような口調で語ってもらっても困りますね(苦笑)。

その学会の問題点にも言及されていますが、現状が単なる学位認定団体になっているから魅力に乏しいので、例えば消化器外科学会に加入すれば労使紛争に際して全面的にバックアップします、労働条件交渉に関しても学会から病院に口を出しますなんてことを表明したならば、それは是非にも俺も入れてくれと言う人が続々と現れるかも知れないですよ(笑)。
一方でマスコミについても言及していますが、最近でこそマスコミも医療業界関係者の言い分に多少は耳を傾けるようになってきましたが、それ以前は華麗にスルーしていたとは彼ら自身ですら認めていることで、それなら彼らに対しては学会としてもそれなりの態度というものを示して良いと思うところですけれどもね。

例えばあからさまな偏向報道に対してはきちんと抗議をしペナルティを与えていく、妙にピント外れのコメントを出している自称専門家には医師団体としてそれなりの自浄作用というものを働かせる、国内諸学会が手を組んでやるとすれば結構面白そうな事が出来そうな気がしますけれどもね。
医者の学閥なんて閉鎖的で何を考えているのか判らないというのが世間様の批判するところなんですから、いっそ思い切ってハジけてしまうというのも面白いんじゃないかと思いますけどね。

さて、話題は尽きないところですがとりあえずここいらで切り上げさせていただいて、次の演題にまいりましょう。
先ほどの話題の中でもワークシェアリングという話が出てきましたが、こちらもそれと関連する話題です。

「従順なイメージ、看護師の自立にマイナス」(2009年7月28日CBニュース)

 診断や治療などの医療行為の一部を担う「ナースプラクティショナー」(NP)の教育や役割について認識を共有しようと、国際医療福祉大大学院はこのほど、シンポジウム「日本でも始まったナースプラクティショナー(診療看護師)養成」(座長=湯沢八江・国際医療福祉大大学院教授、看護生涯学習センター長)を開催した。

 シンポジウムでは、昨年度からNP養成教育に取り組んでいる大分県立看護科学大学長の草間朋子氏や、NPとして実際に米国でクリニックを開業している小柳乃里子氏ら4人が、それぞれの視点で発表した。

 この中で小柳氏は、「日本のマスコミなどで、看護師がどのようにとらえられているか分からない」と前置きした上で、「従順」「自愛」「物言わぬ」などの「看護師のイメージ」は、専門職として自立する上では「むしろマイナスになるのではないか」と指摘した。
 また自身の経験から、問われるのは「自愛」などのイメージではなく、「このケアが科学的なエビデンスに基づくものかどうかだ」と強調し、「奉仕や自己犠牲といったことでは成り立たないと思う」と述べた。

 シンポジウム後のディスカッションでは、「既存の専門看護師(CNS)とNPの違いがよく分からないと言われる」と湯沢座長が指摘。これに対して草間氏は、CNSの業務は現行の保健師助産師看護師法(保助看法)の範囲内にとどまるのに対し、NPは現行法で認められていない医療を限定的に行うなど、両者は全く異なると強調した。

 また、シンポジウム冒頭のあいさつで国際医療福祉大大学院の高梨吉則教授(同大熱海病院医療局長)は、医師不足が深刻になる中、「医療の知識や技術を積むことで、患者のニーズに応えられる看護師が求められている」と、NP養成の意義を強調した。

なかなか興味深いなと思ったのは、看護の要点は専門職としての能力にあるのであって「奉仕や自己犠牲といったことでは成り立たない」と看破している米国帰りの小柳氏の論点だと思いますね。
NP導入の議論の上で、一定の経験を積んだ看護師には簡単な医療行為を許してはどうかという話が出ていましたが、そこで積み上げるべきキャリアとはあくまで行為の根拠としての医学的専門的な知識と技能であって、「風邪に○Lくらい看護師だって出せるはず」などというレベルの経験ではないはずなのですよね。
外から見て同じようなことをしているように見える人々の間にもその背後にある考え方が実は全く異なっていたということはしばしばあることですが、NP導入を図る上でそうした見えない部分に積み上げてきた技能なり知識なりをどう評価するかといった視点が重要なのではないかとも思いますね。

ところでイメージと言えば「日本のマスコミなどで、看護師がどのようにとらえられているか分からない」とは同氏の弁ですが、マスコミによる医者の描かれ方というのはかなり多様化してきたかなと感じられる一方で、看護師のステロタイプな描写が相変わらずまん延していることに看護団体は憂慮すべきなんじゃないかと思いますね。
「献身的な職業人」から「激務で疲弊する人」に至るまで、近ごろでは一見すると色々な看護師像がマスコミに登場してきているように思えますが、終始一貫しているのは「見た目通りの人」としてしか出てきていないということじゃないかなと感じます。
このあたりは映画やドラマなどでも大金をぼったくる悪徳医師が実はいい人であったとか、誠実な医師と見えて実は自分の実績を上げることしか頭になかったとか、医者という人種がしばしば裏表のある人間として描写されていることと比較してみれば看護師は裏がない、ある意味で極めて底の浅い人間としてしか描かれていないというわけですよね。
昔から日本のマスコミは医者を叩きたがりな一方で看護師と言えば白衣の天使だの患者の味方だのと盛んにヨイショしてきた経緯がありますが、そうした通り一遍のイメージのまん延が看護師の自立にとって果たして良いことなのかということも一度考えてみるべきなのかも知れませんね。

さてお次もマスコミ絡みの話題なんですがこちら少しばかり元ネタがありまして、2007年にフジテレビで「潮風の診療所~岬のドクター奮戦記~」なる2時間枠のドラマが放映されたことがありました。

二度の津波に壊滅的被害を受けた北海道浜中町霧多布村に
札幌から妻と二人で赴任し、半世紀近く、
霧多布で地域医療に奮闘した道下医師の半生をドラマでつづる。
医師の道下俊一を水谷豊、妻の敏子を高橋由美子が好演!!

リンク先にそれなりに詳細なあらすじまで載っていましてご参照いただければいいのですが、これはまあ例によって例の如くな…もとい、素晴らしい感動のドラマなのかなと思っておりましたところが、その道下先生自身のコメントを日経メディカルが拾い上げてくださっていたのですね。
こちら「東京日和@元勤務医の日々」さんのブログ記事より引用させていただきますと、こんな感じなんだそうです。

僻地医師五戒~美談の裏側(2009年7月24日ブログ記事)より抜粋

今月は日経メディカルから特別号が手元に届きました。(略)一番興味を引いたのは・・・

「47年務めた名医が残した”五戒”、医師不足に翻弄される医師と住民」

という記事でした。これは、北海道の浜中診療所で働いていた道下先生を日経メディカルが取り上げは1975年2月25日号
「ルポ●ふたりのへき地医 ①北海道、霧多布・道下俊一氏 私を”7500人の家庭医としてクギづけしたもの”を明かそう」
でした。

 この中を引用して・・・

『「私をこの僻地に22年間も踏みとどまらせた理由は何だと思います?・・・・マスコミですよ、マスコミ。ここを逃げだせば、私のことを”人非人”と書きたてるのではないかという不安。僻地の医者でなきゃわからないでしょうね」。

さらにルポでは、道下氏が考えた「僻地医五戒」も紹介している。それは次のような内容だ。

 1.僻地医は人間らしい願いを持ってはならない。

 2.僻地医は超能力者でなければならない。

 3.僻地医は病気にかかってはならない。

 4.僻地医はマスコミを意識しなければならない。

 5.僻地医は聖人でなければならない。

 住民が医師に対し、聖人君子の万能医であることを要求し、マスコミもそれを暗に期待することを強烈に皮肉った「五つの戒め」である。』

その後、就任した浜中町ご出身の先生が、24時間救急を受け入れを停止(心肺蘇生を除く)した経緯や近隣の厚岸病院の救急受け入れ停止などさまざまな余波などを書いてありました。

あ~あ、いっちゃってるよ道下センセったらもう…(苦笑)
個人的にもう少し付け加えたいところもなきにしもあらずという気もするところですが、なかなか率直なコメントではないかなと言う気もする一方、すでにこれは単に僻地のみにとどまる問題なのかということも考えなければならないでしょうね。
一口に僻地といっても単に地理的に僻地であるということは交通の発達した今の時代さほどの意味を持たないのであって、やはり僻地医療という事に関して言えば心が僻地であるかどうかが重要であり、その範囲は実のところ地理的条件を越えて広がっている場合がしばしばあるのがまた厄介なところであるわけです。

「僻」と書いて「ひが」と読みますが、辞書によれば「正常でないこと。妥当でないこと。まともでないこと。」とあるとおり、本来なら社会的少数派の持つ普通でない感覚であるはずなのですね。
一方で「ひがむ」と言えば「物事を素直に受け取らないで、曲げて考える。自分が不利なようにゆがめて考える」ことであって、他人と同じでは許せない、自分は特別扱いでなければ我慢できないという感覚につながってくるわけです。
これらは個人レベルで見ればクレーマーなどとも共通する資質で、健常人との違いとは「医者も人間であるから時には最善でなくとも仕方がない」と「医者も人間であるから時には最善でなくとも仕方がない。ただし、俺様を診療する場合を除く」の差なのではないでしょうか。

その場合何をもって心が僻地であるかどうかを決定するかと言えば、そうした少数ならばどこにでもいる人々を「妥当でないもの」として地域の自浄作用が働くのか、あるいは地域住民自体がそうした概念を共有し相互に増幅しますます発展させているのか差だとも言えるのかも知れませんね。
マスコミは久しくそういう話題を取り上げてこなかった歴史的経緯がありますが、医療がこれだけ問題山積であるということが広く話題になっている一方で、その原因を単に医療業界内部や行政の問題というだけに限定して語るというのもさすがにそろそろ無理が出てきているのではないかなと考え始めている人間も昨今多いのではないでしょうか?

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