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2009年7月 3日 (金)

誰も大きな声では言わないけれど

このところ社会的弱者に配慮するという行為は成熟した文明社会の特権とも言っていいものなのかなとも考えているのですが、これが極端に行き過ぎると逆に社会に妙な歪みをもたらすことになる場合もあります。
こうした事例に対して以前から「逆差別」などという言葉が使われていましたが、人種問題においてあれほどデリケートな対応を見せる合衆国においても先頃最高裁で「逆差別は違憲」なんて判決が出ていることには驚かされます。
最近は「プロ弱者」なんて言い方も広まっているようですが、いずれにしても理念の正しさはそれとして現実社会に還元していく過程で常に妙なことになっていないかと監視していく必要はあるということでしょうか。
それも確信犯的に制度を悪用しようなどという事例は論外としても、正しいはずの主張が何故か思いがけない結果を招いたともなれば誰にとっても不幸なことになってしまいますよね。

仰ることはまあ判るけれどもホントにそれが正しいことなの?と感じる最近の事例として、世に悪評高い後期高齢者医療制度ってホントにそんなに悪いものなのか?という素朴な疑問があります。
この件に限った話でもありませんが、最近は政権のやることはとりあえずなんでもかんでも批判するのがマスコミのお好みらしくて、あるいはそんな流れに沿って深く考えてみることもせずに批判を繰り広げているだけなのではないかと感じることって結構ありませんか?
仮にマスコミの論調=いわゆる世論であるとすれば、医療従事者と世論とは結構乖離しているんじゃないかなと思うことはままあるものですが、周囲の医療関係者と内輪話をしてみても制度の趣旨自体がそれほど悪く受け止められているという印象は受けないんですよね。
後期高齢者医療制度に関しては市民側の視点からの記事は多々ありますが、別の視点ではどうなのかということでまずはこんな記事を取り上げてみましょう。

後期高齢者医療制度という言葉、「違和感はなかった」(2009年7月1日ロハス・メディカル)

 昨年4月からスタートした「後期高齢者医療制度」という名称について、厚生労働省の担当者は中医協から、「専門的な人間の間ではそれほど違和感はなかった」との指摘があったことを明かした。(新井裕充)

 来年4月の診療報酬改定に向けた審議の中で、厚労省は合併症を抱える高齢者らを「複雑性指数」などの言葉で表現しているが、中医協から修正意見が出ている。

 「後期高齢者医療制度」の"トラウマ"から、制度の名称に神経質になっているのだろうか。

 「後期高齢者医療制度」は2008年度の診療報酬改定で導入された。75歳以上の高齢者を「後期高齢者」と呼び、健康保険や国民健康保険から追い出して強制加入させ、保険料を年金から天引きするだけでなく、保険料を払えなければ保険証を取り上げる制度に対し、批判が相次いだ。

 このため、厚生労働省は「長寿医療制度」という通称を使用したポスターやチラシなどで理解を求めたが、保険証の未着や保険料の天引きミスなどの混乱が続き、批判の嵐はやまなかった。同制度に対する批判は単に名称だけの問題だけではなかったように思われるが、厚労省は制度自体に内在する問題から目を背け、名称の変更でかわそうとしたようにも見えた。
(略)
 現在、在宅医療などの受け皿が整備されないまま「医療機能の分化と連携」という名の退院支援策が進められていることが問題になっている。厚労省の説明通り、「手間のかかる患者」にとって望ましい制度に変わると善意解釈していいのだろうか。

 むしろ中小病院を倒産に追い込み、入院できない患者が続出するような診療報酬改定を実施した後、「違和感はなかった」と開き直る可能性の方が高いようにも思えるが、果たしてどうか─。  
(略)

何でも「後期高齢者医療制度」というと語感が悪いということで、国の方では「長寿医療制度」と呼ぶことにしましょうなんて言っているそうですが、厚労省もよほど世間からは嫌われていることを自覚しているようですね(苦笑)。
しかしロハスの記者さんの批判目線はともかくとして、高齢者は若・壮年者とは別な医療の枠で扱おうと言う概念自体は案外医療の世界では忌避されているわけでもなさそうだなというイメージは垣間見える記事ではあるのかなと思います。

もちろんお年を召された方の場合そこから頑張って稼ぐというわけにもいきませんから、支払い能力がないからといきなり保険証を取り上げるだとか、在宅医療の整備もないのにいきなり療養病床だけ削って後は知らないといった態度は社会保障政策として大いに問題となることは言うまでもありません。
その意味ではこうしたキャッチーな哀しい物語を例にとって非難が集中するのも一面で理解はできるんですが、じゃあ高齢者は医療費(実質)タダ同然、家で世話するより病院に預けておいた方がずっと安上がりで手間いらずという状況が良いのかと言えば、それもまた違うんじゃないかと思うんですよね。

日本医師会などはもっぱら診療報酬の面でこの制度に反対しているようにも見受けられますが(苦笑)、現場に関わる人間が必ずしもこの制度に対して批判的というばかりでもないのは、大前提として「やっぱり高齢者の医療って若い人とは違うよね」という当たり前のコンセンサスがあるからではないかと言う気がしています。
特に超高齢者の看取りということを数多く経験すればするほど、心ある医療者であればなおさら「何か日本の医療っておかしいんじゃない?」と考え始めるものではないでしょうか。
このあたり、実際の臨床家の先生のブログにちょうどいい一例があげられていましたので、少しばかり古い記事なんですが紹介しておきましょう。

患者の皆さん、あきらめてください(2007年12月27日天国へのビザ記事)

中央公論1月号の特集、「医療崩壊の行方」の中で、若手医師の匿名座談会ー現場からの提言 という記事があった。
「患者のみなさん、まずはあきらめてください」
というタイトルがつけられている。これによると

厚労省は「自宅での看取り」を求め、「お産も産婆さんが家で取り上げる」ことをすすめようとしている。
そうすれば日本人の平均寿命は下がるし、出産死亡率は上がるけれど、まあ、それは仕方がないでしょう。
団塊の世代が老人になったとき今のように医師にかかるのは完全にあきらめるしかないでしょう。
すべて80年代に手を打たなかった厚労省が悪いと言えます。
団塊の世代に「医師にかからずに死んでください」と言っているようなものです。

この「あきらめてください」は、「医師にかかるのをあきらめてください」という意味のようだ。
先日、私も患者さんのご家族に、少し意味は違うが「あきらめてください」と言いたくなることがあった。
 *
95歳の男性、認知症のため施設に入っていた方が、肺炎を起こして入院した。
抗生剤治療を行い、一時回復に向かったように見えたが、黒色便が出て、Hb4.7と極度の貧血に至った。消化管出血による貧血と思われたが、呼吸状態が悪く、胃カメラなどの検査も危険で行えない状況だった。
息子さんと娘さんは輸血をしてほしいと言い、濃厚赤血球をオーダーした。3日間に分けて行う予定とした。
1日目は血液が届いたが、2日目は届かなかった。オーダーしたAB型の血液が不足しているという理由だった。
輸血製剤のオーダーをするとき、患者の年齢や重症度などは報告しない。この老人は95歳だから後回しにされたというわけではない。年齢に関係なく、若者で輸血を必要とする患者のところにも平等に血液が届かないということである。
95歳で死にゆこうとする老人に輸血を行うことに何の意味があるのだろう。昨日の血液が、未来のある若い患者のもとに行き渡ったら、助かる命があったかもしれない。
私は輸血製剤のオーダーを取り消した。そして、家族にそれを話した。
娘は泣き崩れた。
「お願いです。できるだけのことをしてください!」
95歳、認知症で施設に入っていた患者である。もう寿命とは思えないのだろうか。
できるだけの看護をしてくださいというのなら分かる。しかし、できるだけの治療をしなければならないのだろうか。
不足している医療資源を奪ってまで、95歳の老人の命を数日長引かせることに何の意味があるのだろう。
しかし、その家族は自分の親の命を1日でも長引かせることで頭がいっぱいのようだった。

このご家族が特殊なわけではない。
死を受け入れることができない人が増えている。
「老いたら死ぬ」そんなことがこの国では当たり前のことではなくなっている。
老いてもとことんまで治療され、生かされる。自分の意志とは無関係に。
そして、そのために限りある医療費が使われているのだ。
「できるだけのことをしてくれ」という家族は思いもしないだろう。自分が老iいて死ぬとき、病院にかかることさえできなくなるかも知れないなどとは・・。
肉親の死は悲しく辛い。たとえ95歳の大往生であっても辛いものは辛いだろう。
しかし、人間は永遠に生きることはできないのである。 肉親の死を受け入れ、悲しみを乗り越えなければならない。

日本人の死生観は明らかにおかしくなっている。
今こそ見直さなければならない時期にきているだろう。

日本の医療制度が日本人の死生観を変えてきたんじゃないか(それも何か歪んだ方向に)という点については個人的に同意するところ大ですが、こちら記事もさることながらコメント欄がなかなか興味深いですのでご一読いただければと思います。
ここにおいてもやはり日本人というものはホンネとタテマエというものから離れられないのかなという印象も受けたのですが、どうでしょうか。
ロハス・メディカルさんでは過去に後期高齢者医療制度絡みで別な記事も取り上げていますが、こちらも看取りと言うことに関連して医療従事者のホンネと家族のホンネが見え隠れするなかなか興味深い記事ですので併せてご参照いただければと思います。

終末期の治療方針、「家族の意見がバラバラ」(2009年4月26日ロハス・メディカル)

看取りということに都市部では本当にドライになってきているところもありますが、地方では未だに死というものにも格付けみたいなものがあるようです。
どこの病院で死んだ、亡くなるまで何日保ったといったことが亡くなった後で結構話題になるらしく、「あの病院で看取ったか。親孝行したな」だとか「血を分けた親をあんなところで看取った?なんでまた?」みたいなことを周囲から言われるらしいんですね。
その結果どう見ても自然経過でお看取りすべきような方々が田舎の小さな病院から基幹病院に送りつけられてくる、そしてただでさえ一杯の病床をただ看取るという行為のためだけに埋めていくわけです。
別にそれ自体は本来は美談で済む話なのかも知れませんが、その陰で直ちに入院させて治療を始めなければならない人がベッドがない、どうしようと大騒ぎになっているとしたらこれは穏やかではありませんよね。

医療と言うものはやはりお金がかかりますし、それも普通であったらとても一般人には負担が出来ないようなレベルであっという間にお金が消費されていく局面というのが唐突に訪れるということが珍しくありません。
もちろん高額医療費に引っかかっても自己負担分は払っているわけですし、そもそもそうしたとっさの出費のために普段から安くもない保険料を支払っているわけですから、制度の範囲内で十二分にそれを活用することも誰憚ることのない権利ではあるでしょう。
しかし「え?大盛りサービスなの?それじゃ頼んじゃおうかな」といった感覚で「え?支払い額は変わらないの?それじゃ出来ることは全部やってもらおうかな」とあっさりと決断されてしまうには、いささか医療資源は金銭的にも人員的にも逼迫しすぎているというのも事実なんですね。

別にお金がかかってもやることに意味があるのであれば幾らでもやるだけの覚悟は多くの臨床家が持っているんだと思いますが、では本当にその行為に意味があるのかという疑問も臨床の現場ではしばしば遭遇します。
まして単に無意味であるだけならばまだしも、その行為によって他のもっと大切なものが犠牲になっていると感じられるようになれば、人は容易にそのモチベーションを失うものです。
こういうことを言うと「人の生き死にに慣れきってしまって感覚がおかしくなった者の言うことだ」と批判されてしまう場合も時にあるわけですが、本音の部分で皆さん本当に「何でも全部」ということをお望みなのかという疑問はそうした現場に遭遇したことのある者なら誰しも内心抱いているところではないでしょうか?
本来なら一昔前に「スパゲッティ症候群」などと医療批判を繰り広げたマスコミこそ真っ先にこうしたところを掘り下げていかなければならなかったんじゃないかと思うのですが、未だ感傷的な批判ないしは為にする政策批判の道具としてしか医療制度を取り上げていないように見えるのは残念ですよね。

その昔は田舎では医者を呼ぶと言えばそれこそ死亡確認の時だけで、それも夜中に起こすなんてことはなくわざわざ夜が明けてから呼びに行ったといった話が普通にあったそうですが、今の時代「自分は家で看取りたいけれども、親戚の目があるから…」と伏し目がちに末期高齢者の看取り入院を希望する人々は本当に多いものです。
金銭で命が決められてしまうといえば何かしら良くないことのように思われるかも知れませんが、もし金銭的負担というものが一つの契機となって妙な方向に進んできてしまった死生観というものがより真っ当な方向に修正されていくというのであれば、それは必ずしも悪いことばかりでもないのかなという気がするのですけれどもね。
人はいずれ必ず死ぬ、まして死ぬべき人が死んでいくということならこれは当たり前の自然の摂理とも言うべきことで、むしろそれを妙に歪めてしまうような作為を何より本人こそが望んでいないのではないかと、恐らく生前病院に顔を出したこともない遠い親戚よりも、亡くなるその日まで日夜病床に付き添っていた家族の方ほど痛感しているのではないでしょうか。

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コメント

自分で排便・排尿をできなくなってまで生きていたいとは思いません。自分のことを自分でできなくなったら終わりだと思います。末期がんであれば延命「治療」は不要、ただ痛みや不快感を和らげて欲しいとは思います。でも自分ではなく家族であれば複雑ですね。答えはないなぁ。

投稿: 50歳のおじん | 2009年7月 3日 (金) 15時52分

その時になってみなければ判らないと誰しもおっしゃいますが、いざ実際にその時になってみると主体的に決断できず、結局皆と同じようにしてくださいとなりやすいようです。
色々な意味で死という現象に対する経験が乏しくなっている影響が社会的に現れてきているのかなという印象を受けています。

投稿: 管理人nobu | 2009年7月 4日 (土) 12時11分

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