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2009年2月27日 (金)

この場合どちらが被害者でどちらが加害者なのか?

松尾芭蕉の句に「おもしろうてやがてかなしき鵜飼哉」というものがありますが、鵜飼いに限らず同様の感慨を抱く瞬間というものは現代社会では珍しくありません。
今日はまずお隣中国から「やがてかなしき」ニュースというものを一つ紹介しましょう。

転んでも救えない社会、「自分で転んだ!」と老人が必死にアピール―中国(2009年2月27日レコードチャイナ)

2009年2月23日、南京晨報によると、江蘇省南京市で22日、75歳になるお年寄りがバスを降りる際に転倒した。ところが、誰もそれを助けようとしないばかりか、転んだ老人は自ら「自分で転んだんだ、安心してくれ!」と周囲にアピール。それを聞いて、周囲の人たちはようやく老人を助け始めた。

こうした奇妙な状況が起きる背景には、ある事情がある。南京市で07年、つまずいて転倒した老婆をある男性が助けたところ、逆に男性に突き飛ばされたと老婆から訴えられ、数万元もの慰謝料を請求される事件が起きた。また08年にも、浙江省温州市で、転んで気を失った老人を病院へ運んだタクシー運転手が、意識を取り戻した老人から訴えられ、賠償請求されている。河南省でも、転んだ老婆を助けた女性が「あんたが私を突き飛ばしたのか!」と責められ、警察沙汰になる事件が起きている。

こうした事件が頻発した結果、中国ではこのところ、転倒した老人を進んで助けることを躊躇する風潮が定着してしまっているという。

何とも悲しい話だが、言いがかりをつけた老人が痴ほう症なのか? それとも、わざと交通事故を起こし、示談金をだまし取る「当たり屋」的な発想なのか?根底にあるものはいったい何なのだろうか。

一見してトンデモニュースの類にも見えるこの記事ですが、実のところその背景にあるのは日本の医療崩壊という現象とも深く共通する現象であるように思えますね。
ひと頃医療訴訟のリスクに対する防衛医療と言うことが盛んに叫ばれましたが、昨日少し触れました救急受け入れ問題の件などとも共通しているのは、関係者相互の不信感の増大ということではないでしょうか。

医療という現場はもともと唯一法によって他人を傷つけることを認められていることからも判るように、特に医療を受ける側の忍耐・受容・協力といったある種の善意を前提としなければ成立しない性質があります。
近ごろでは各地の病院で悪質未収金に対する訴訟といった話が出てくるようになりましたが、「緊急事態なんだからお金がどうとか気にせずまず治療を」という医療機関の性善説的対応が今の時代に通用しなくなってきているということですよね。

当然ながら医療というものもこうした時代に合わせて変化していかなければならないわけですが、問題はその変化によって最終的に利益・不利益を被るのは誰かということです。
財政破綻した夕張市で医療サービス再建に奮闘する高名な村上医師がこんな興味深いぶっちゃけ話をしていますので引用してみましょう。

夕張は地域行政の縮図 。住民ニーズの肥大化が行政サービスを破綻させた/村上智彦(2008年版日本の論点PLUS)

給食費の未納額は北海道で一位
 二〇〇六年(平成一八年)三月六日に北海道夕張市は六三〇億円といわれる負債を抱えて破綻、多くの自治体関係者に衝撃を与えた。
「夕張ショック」と呼ばれたそのニュースは全国を駆け巡り、報道陣が夕張市に殺到した。活気にあふれた連日にわたる報道のおかげで、皮肉にも夕張市が久しぶりに注目されることになった。
 夕張市の関係者も含めてまさか「自治体が破綻する」とは、思っていなかったであろう。おそらく心のどこかで「財政状況が悪くても国が何とかしてくれる」「財政状況が悪いのは国や道にも責任がある」――と思っていたに違いない。
 たしかに市だけに責任があるとは思えない。なぜなら、その道筋を決めた首長を選んだのは住民だし、議員を決めたのも住民だからだ。「そんな状況だとは知らなかった」という人もいるだろう。だが「知ろうとしなかった」という不作為がなかったといえるだろうか。
 マスコミがあまり報道していないものに、夕張市の医療費の未納金が二億円、市営住宅の滞納が三億円、給食費の未納が北海道で一位という事実がある。ごみ処理も無料で、分別する必要もないなど、外部から来た私には、破綻前の夕張市は公共サービスに恵まれすぎていたとしか思えない。

医師の給与が安く事務職員が高いという現実
 夕張市の財政破綻に伴い、夕張市立総合病院が約四〇億円の負債を抱えて破綻した。
 〇六年八月に、総務省から委託を受けたアドバイザーがこの病院の経営分析をしたが、その調査報告は「“親方夕張市”の意識を持つ病院職員による病院の再建は困難である」という厳しいものだった。
 結局、職員を全員解雇して「医療法人財団 夕張希望の杜」を設立、総合病院を有床診療所と老人保健施設として指定管理者を募集し、公設民営化するということになった。人工透析も廃止となり、多くのマスコミが「医療の後退」「非人道的」といった論調で報道した。しかし、現場には報道では伝えられていない事実がある。
 私が赴任した〇六年一二月の時点で、一七一床ある総合病院に常勤医は二名しかいなかった。入院患者は二〇名ほどだが、大部分は医療というより、むしろ介護の必要な人たちであった。
 つまり看板こそ総合病院を名乗っているが、中身は診療所の規模といってよい。二名の医師で人口一万人以上の救急を受けつけ、外来と病棟業務をこなし、人工透析をしていたのである。
 どう考えてもこちらのほうが「非人道的」だ。行政も住民もそれを知りながら放置していたのである。「医師は給与が高いのだから労働基準法を無視して自己を犠牲にして働いて当然である」という感情が地域から医師を引き揚げさせ、地域医療を崩壊させる根源になっているのをご存じだろうか。先の病院の経営分析では、医師の給与は周辺の自治体病院より数百万安く、逆に医療従事者や事務職員は数百万高いというのが実態だった。
 地域医療の崩壊の原因はさまざまだが、一番の原因は行政や住民の医療に対する無理解にある。病院長には実質的な権限はなく、病院経営に経験のない役場職員が交代で運営、しかも誰も責任を取ろうとしない。このお役所体質が経営改善や改革を阻んでいたのだ。住民もタクシー代わりに救急車を使い、コンビニ受診を繰り返し、医師のやる気や体力を奪っていった。
 実際、こうしたケースは地域医療崩壊の典型的な図式だといってよい。医療資源は有限であり、医師も人間であるということを真剣に考えていたとは到底思えない。その意味では住民は被害者であり、加害者でもあったと思えてならない。

「病気にならないようにする」義務
 こういうと、町のおかれた状況や病院の事情は一見悲惨に見えるが、じつは見方を変えれば夕張市は可能性にあふれている。たとえば、
(1)札幌市や千歳空港から高速で一時間くらいとアクセスが良く、鉄道も乗り入れている。
(2)標高が高く、自然環境に恵まれた避暑地。温泉にも恵まれている。
(3)雪質が良く、リフトまでスキーで行けるスキー場が存在している。
(4)炭鉱経験のある元気な高齢者が多く、労働力となりえる。
(5)夕張メロンというブランドがある。杉の木が植栽されておらず、杉の花粉症がない。
(6)石炭の歴史村など特異な観光資源や歴史が存在する。
(7)財政破綻した結果、改革していけば新たな高齢化社会のモデルを構築できる。
(8)使用していない箱物にあふれており、アイディアさえあれば有効利用できる。
 ざっとあげてもこれだけある。
 しかし高齢化が進んでいるのだから病気になる人もそれだけ多くなるし、介護が増えるのも当然で、それを支える人材が必要になる。逆にいえば高齢者を町の資源(宝)と考えれば雇用創出も可能だ。リハビリテーションや予防医療を実践することで、高齢者自身を労働力に変えることができるのである。この仕組みを支える安全保障としての医療機関とリハビリテーションの拠点としての老人保健施設を運営していくというのが、町創りに参加する我々の構想である。
 医療保険というのは本来安全保障の一つで、介護保険、年金保険などと同じで相互扶助を前提に成り立っている。これらには義務と権利がある。たとえば介護保険の義務は「保険料を納めること」と「寝たきりにならないように努力すること」である。そしてその人たちに保険給付を受けるという権利が生じたときに、公正を期するために「要介護認定」という基準があるのだ。
 医療保険も同じで、義務は「保険料を納めること」と「病気にならないように努力すること」である。しかし多くの場合「医療を受ける」という権利ばかり主張しているのが現実だ。さらにいえば保険(税金)を使ううえで公正を期すために判断するのが保険医の仕事である。
「高度な医療をどこの地域でも受けられる」というのは理想的ではあるが、そのインフラを僻地を含めて全国に整備するのは、実際問題として非現実的である。だが、高度な医療を受けなくてもすむように生活習慣を改善することは可能である。

救急車の出動一回につき三、四万の経費
 住民の健康は、医療機関の数や規模が保証するものではない。健康のための必要条件は、実は住民自身の健康意識なのである。病気の多くが生活習慣病なのだから、予防にも治療にも生活習慣の改善が必要だといえば理解しやすいだろう。
 高齢化社会では、高度先端医療も専門医も必要だ。しかしもっと必要なのは自分の健康を医師に丸投げにしないという健康意識なのである。
 夕張市の住民が大きな病院と専門医をいくらほしいといっても、来たいという医師はほとんどいないし、自力で運営していく予算もない。住民の要求は必ずしも医療ニーズとは一致しないのだ。
 ではニーズとは何か。それは公共の福祉に基づいた要望といったほうがよい。最近の救急車の問題のように「一回の出動に三、四万円の経費がかる。だから海外では有料なのだ」、あるいは「自分が軽症で利用すると、重症の人に迷惑をかける」といった感覚で利用していかなければ制度も崩壊してしまうし、有料化が避けられなくなってしまうのだ。「医療は素人だから」という免罪符がなぜか医療機関で用いられるが、誰も八百屋で「野菜のことは素人だから」といって店の人に品物の選択を任せることはしないだろう。
 私は医療においては、個人の権利や情報より命のほうが大切だと考えている。だからこそ公共の福祉が優先されるべきだし、それを意識しなければ皆保険制度が崩壊すると思えてならない。
 高齢化や破綻の最先端を走るここ夕張で、住民と一緒にさまざまな取り組みに挑戦し、高齢化社会でも生きがいを持てる環境を整備していくのが私の夢であり希望でもある。そこで生まれたノウハウや情報は、きっと将来高齢化を迎える都市部にも役に立つのではないかと思っている。
 夕張は「炭鉱から観光に」というキャッチフレーズのもと、役場主導で再出発したが破綻した。今度は「観光から健康や環境へ」というのをキャッチフレーズに、他の職種や行政と協同を模索していきたい。その点、健康に必要な自然環境が整った夕張は理想的な地域だと私は思っている。
 いまの夕張は最悪かもしれない。しかしいいかえればこれ以上悪くなることはないし、ある意味「オンリーワン+ナンバーワン」になれたのだから、チャンスは十分にある

あ~あ、言っちゃったよこのヒトは(苦笑)。
しかし将来ビジョンの提示などはせたな町で予防医療の実をあげられた村上医師らしい提言だなと拝見しましたが、「住民は被害者であり、加害者でもあった」とはけだし名言だと思いますね。
このぐり研ブログにおいても医療崩壊という現象においても加害者である国民という側面からずいぶん多くの話題を取り上げて来ましたが、近ごろようやく「待っているだけでなく自分たちでも何かしなければ」という動きが医療を受ける側からも見られるようになったのはよい傾向だと思います。

およそ現在または将来にわたって医療を受ける可能性がある日本全国一億人余の皆さんに繰り返し強調したいのは、医療もまた他の産業と同じく国民の受容に応じて時代と共に変化していくものであって、そうであるからこそ医療の将来像を最終的に決定するのは国民自身であるということです。
医療崩壊だ何だと最近盛んに喧伝されるようになった医療を取り巻く諸問題の根源をたどっていけばその原因となる国民自身の問題点に突き当たるわけであって、そうであるからこそ自ら問題点を把握し是正していかなければ根本的な解決には結びつきません。

そして何より、どこに何をどれくらい求め、そしてそのために何をどれだけ負担する意思があるのかを利用者である国民自身が決めていかなければならないわけです。
財布の中身と相談しながら日々のちょっとした買い物においてもそうした決断が常に要求されている中で、はるかに大きな額のお金を使って国民の命を守る医療という分野で「私なにもわかりませんから適当にやっておいてください」なんて態度っておかしくないですかということですよね。

経済環境も財政事情もかつてない厳しさを増し、国民それぞれが生きていくのに必死になっている今という時代だからこそ今まで以上に知恵を絞って考えなければならないのは道理であって、何もかも終わった後になって「近所の病院がなくなったぞ!不便で仕方ないじゃないか!」なんて文句をつけてみたところで仕方がないわけです。
生まれるときも死ぬときも、何より生きていくという行為自体に深く関わってくる医療の問題を国民皆が我が事として考える一つの契機にできるのであれば、医療崩壊という現象にしてもまだまだ「チャンスは十分にある」んじゃないでしょうか。

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