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2008年12月 1日 (月)

既存マスメディアはネット時代に対応できていない

先日もお伝えしました毎日新聞の誤報問題ですが、どうも真摯な反省の態度が見られないようです。
風の息づかいを感じていれば」等々他人に要求することは殊更に厳しい正義派の毎日新聞としては、こうした態度は如何なものなんでしょうか?

「毎日新聞は正義」、誤報への開き直り発言か?(2008年11月30日探偵ファイル)

元厚生事務次官・吉原健二氏の殺害予告がウィキペディアでなされていたと、毎日新聞は報じた。ところが、ウィキペディアが採用する「協定世界時(UTC)」を、担当記者は知らなかった模様だ。そのため、事件報道後に書き込まれた内容を、殺害予告と勘違いしてしまった。

毎日新聞が新聞紙に掲載した訂正記事には、「犯行示唆と受け取れる書き込みをしたとする人物」と書かれていた。これに対して、各所で批判が続出した。ウィキペディアにあった「×は暗殺された人物を表す」という文章を「犯行示唆と受け取れる書き込み」と捉えたのは、記者の勝手な思い込みではないかという指摘だ。

当該の書き込みをした「Popons」という人物は22日、その後の経緯をウィキペディアで報告した。「被疑者として警察で丸一日取り調べを受けました」とのことで、個人情報を警察に提出した上に、会社も休むことになったという。報道による生活への影響を批判し、同日に毎日新聞に抗議の電話をかけたそうだ。

29日、この人物が再びウィキペディアに出現。毎日新聞社会部に属する人物と会い、先方から口頭で謝罪があったという。その際に、以下の3点を要求したとのこと。「(1)毎日新聞上での私に対する公式な謝罪、(2)誤報が何故起きたのか原因究明、(3)私が実生活で被った不利益に対する補償」。

書き込みは被害者感情を傷つけるものであるという理由で、紙面での謝罪は道理に反すると、毎日新聞は回答したという。更に、「毎日新聞は正義」と発言したそうだ。また、毎日新聞の責任転嫁という上述の点を指摘した日経の記事について、「日経新聞本紙の記事ではない」との理由で、問題はないと語ったとのこと。毎日新聞が報じなくても警察が取調べを行なった可能性はあるから、補償の必要はないとも述べたという。

これらの主張に対して、ネット上では非難の声が続出。「毎日新聞は正義」という発言への批判、責任転嫁の問題を棚上げにしているという意見、新聞紙ばかり重視しネットの記事は軽視しているのかという疑問、毎日新聞が誤報を流さなければ警察沙汰にならなかった可能性は極めて高いという指摘など、様々だ。

今年のネット流行語大賞は「変態新聞」に違いないと言われている。今回の騒動により、「変態新聞は正義」が大賞になるかもしれない。

ちなみに上記記事中にも出ているウィキペディアでの経緯報告というのはこちらの話のようですね。
そもそものウィキペディアでの記載自体が公開される百科事典として適切なものなのか?という指摘はあり、当該する書き込みを行ったPoponsもその点については率直に謝罪しているのですが、一方で根拠なき誤報によって他人に迷惑をかけた側として毎日新聞の態度はいささかどうなのかと思う人も多いのではないでしょうか?

近ごろでは毎日新聞の暴走ぶりが目立つためか他の既存メディアの失態はやや隠れてしまっている感もありますが、ネット上では毎日新聞に限らない既存メディアへの批判的論調というのが一つのトレンドになっているようです。
今日は最近のネットメディアの発信した記事から、こうした既存のマスメディア批判の主だったところを幾つか拾い上げてみましょう。

元厚生事務次官殺傷事件の報道に、現場的「おい!大丈夫か」(2008年11月26日日経BP)

 もともと新聞やテレビの報道を全面的に信じるタイプではない。にもかかわらず、元厚生事務次官殺傷事件のネットにかかわる報道には「おい!大丈夫か」になってしまう。
 その代表が毎日新聞の「誤報」である。

 容疑者が出頭したこともあって、いまや忘れさられようとしているが、これこそ「おい!大丈夫か」の典型だろう。毎日新聞が11月19日朝刊で「ネットに犯行示唆?(27面 14版東京)」の四段抜き見出しで「事件の約6時間前に、インターネットの『フリー百科事典・ウィキペディア』に犯行を示唆する書き込みが会ったことが分かった(同)」と報じた件ある。
 ネットでも話題になったので、ご存じの方も多いだろう。要は協定世界時(UTC)を日本標準時(JST)と間違え、「約6時間前」と記事にしてしまったのである(参照 「ウィキペディアで犯行示唆」 恥ずかしい大誤報を毎日新聞が謝罪 JCASTニュース11月19日)。かなり批判されたようなので「打落水狗」はしたくないが、いくら「?マーク付」とはいえ「恥ずかしい大誤報」と指弾されても当然だろう。
(略)
 いい訳ではないが、生活時間とパソコンのローカルタイムに加え、サーバーの設定タイム──わかっているつもりでも往々にして勘違いは起きる。
 しかし、間違いが起きるのと、そのまま記事にして紙面に載せるのは大違いだ。いくら記者が「これは特ダネ」と思っても、チェック機能が働くのが新聞だろう。編集長や校閲担当者が「裏はとったか?」とする筈である。
 見逃したのか、それとも確認もしなかったのか、「裏もとらず」活字になってしまったしか思えない。

 ところが、「おわび:『ネットに犯行示唆?』の見出しと記事=11月19日付朝刊(毎日jp 11月20日)」では「本紙記者はその事実を把握しないまま記事にしました(同)」とあるだけで、「裏をとらなかった」ことには一切の説明もない。しかも、受けとり方によっては「書き込みをしたとする人物(同)」の責任転嫁しているようにも読める内容である(リンク先参照)。
 これでは「大丈夫か」を通り越して、「社会の木鐸」として機能するのか心配になってしまう。
(略)
 容疑者が出頭するまで、程度の差はあるにせよ「年金テロ」とテレビも新聞も報じてきた。現在も「テロ」という言葉を使う報道もある。冷静に事実だけを見ると、はたして軽々しく「テロ」といっていいのか判断は難しい。それは、Web制作現場の手に余るが、違った影響をもたらすのは確実である。
 その一つとして「テロ」と何度も報道されると「年金のことや官僚の天下りをトヤカク指摘すると『テロ』を助長するかも」と心配する傾向が個人的には起きている。事実、似たような感想を持つ現場のスタッフは少なくない。それを意図してるとは思わないが、この段階でも(11月25日夕刻)「テロ」とするには違和感を覚えてしまう。

 しかも「インターネットでは」とされると、これは「大丈夫か」では済まなくなる。
 けっして毎日新聞を目の敵にしているわけではないが「今回もインターネット上で、犯行を支持するかのような無責任な匿名の意見が飛び交っている(「社説:元厚生次官宅連続襲撃 類例を見ぬ卑劣な犯行  暴力容認の風潮一掃しよう」毎日jp 11月20日)には「ちょっと待て」になってしまう。
 たしかに「犯行を支持する」書き込みがあり、目につくことは否定しない。だからといって「無責任な匿名の意見が飛び交っている」は、あまりにも事実の一部を誇張しすぎだろう。
(略)
 繰りかえしになるが、指摘されるような書き込みがあるのは否定しない。また、きわめて珍しいかというと、目にする件数としては多いだろう。
 しかし、亡くなったご夫婦の哀悼の意を表し、負傷されたご夫人の回復を祈る書き込みも目立つ。あるいは、テロ報道に疑問を表明するものや、暴力に反対という書き込みもある。
 それは「無責任な匿名の意見が飛び交っている」のではなく、「さまざまな意見が飛び交っている」だろう。百花繚乱──それがネットなのだ。
 そのことを見逃すと、なにが事実なのか偏ってしまう。
(略)
 ネットは社会から切りはなされて存在しているわけではない。きわめて攻撃的な書き込みもあるし、犯罪を助長するサイトだってある。しかし、それは社会の縮図なのだ(凝縮にネット特有のバイアスはありますが)。社会がそうであるように、暴力を支持する意見もあれば、それに反対する意見もある。それを、あえて「ネットでは」としてしまうと、結局は、すべてが「ネットだから」となってしまい、ネット特有のバイアスどころか、問題の本質さえも見逃してしまう危険性がある。

 制作現場では「データのない提案は空想と同じ」とされているが、報道でも「『確認』『調査』『取材(聞く)』のない記事やコメントは」信頼されることはない。

ネットユーザーたちが暴き始めた「客観報道」というまやかし=佐々木俊尚(2008年11月25日@niftyニュース)

ネットの普及、IT技術の進化により、一般の人が目撃したマスメディアの取材現場がネット上に晒されるケースが増えている。また、報道に疑問を持った読者、視聴者がマスメディアに電話をかけ、その対応をネット上に掲載するケースも多々ある。従来は覆い隠されていた取材現場、被取材者としての対応が暴かれることで、マスメディアは大きな危機を迎えている。

化けの皮が剥がされる「高邁な社会正義」

 今年6月8日、秋葉原で無差別殺傷事件が起こったときのことだ。
 たまたま事件現場やその周辺に居合わせた一般の人たちが、携帯電話やデジカメやデジタルムービーで被害者の様子を含め現場の悲惨な状況を撮影し、それを赤外線送受信で交換したり、ネットの掲示板やブログや動画投稿サイトにアップしたりする行為を盛んに行なった。土地柄からITに強い人が多く、パソコンに内蔵されているウェブカメラで撮影し、その場で動画配信サービスに接続して現場の生中継を行なった人もいた。
 こうした行為に対してマスメディアは「惨劇を前にして不謹慎ではないか」「被害者に失礼ではないか」と、その〝野次馬根性〟を批判した。

 もちろん、人が生きるか死ぬかという状況を前にして撮影をするべきなのか、それとも何をおいても被害者を救護するべきなのかというのは、プロの取材者であっても、モラルが問われる根源的な問題だ。実際、野次馬根性に対する批判はネット上でも沸き起こった。
 しかし、その一方で、では、マスメディアには一般の人たちの野次馬根性を批判する資格があるのか、という問題がある。

 私自身、新聞記者出身で事件現場の取材を何度も経験したのでわかるが、慣れないうちは一般の人たちと同じように興奮し、場数を踏むと今度は感覚が麻痺し、殺人現場であろうと笑いながら取材したり、他社の記者と場所取りで争ったりするようになる。ところが、紙面や画面では「我々は高邁な社会正義に基づいて報道している」という姿勢が装われる。
 従来はそうした現場の実態と報道の建前とのダブルスタンダードが通用した。たまたま一般の人が取材現場におけるマスメディアの実態を目撃しても、せいぜい周囲に話すだけで終わっていたからだ。
 ところが、今は違う。かつてなら一般の読者や視聴者にとってはブラックボックスだった取材現場における野次馬ぶり、不謹慎な態度が、ネットユーザーにより、掲示板、ブログ、動画投稿サイトなどで、文章で書かれるだけでなく、画像、映像、音声付きで生々しく暴かれるようになったのである。

 実際、秋葉原の事件のときには、新聞記者が容疑者に「あれってオタクがやったんだよね」と大声で問いかけたり、一般の人たちに「誰かもっとセンセーショナルな写真を持っていませんか」と聞いて回ったりする様子がネットにアップされた。5月に愛知県豊田市で女子高生が殺害された事件のときには、テレビ局のスタッフたちが殺害現場の近くで手を叩いて笑っている映像が投稿された。これ以外にも、路上禁煙地区になっている取材現場でマスメディアの人間がタバコを吸い、ポイ捨てしている様子や、違法駐車を注意した周辺住民にマスメディアの人間が怒鳴っている場面がネット上で報告されるといった例は数多くある。
(略)

自らが取材されることに鈍感なマスメディア

 ネットの出現、普及により、このように取材の現場やプロセスが可視化され、その実態と紙面、画面の建前のダブルスタンダードが通用しなくなり、マスメディアの取材姿勢が厳しく問われるようになっている。
 典型的な事例のひとつが、毎日新聞が2007年正月から掲載を始めた大型連載『ネット君臨』を巡る新聞社と著名ネットユーザーの議論だ。

 前年9月に始まった、難病にかかったある幼女の手術費用を募金する運動に対し、募金活動の倫理性や情報の透明性を問う視点から、ネット上で批判が起こった。『ネット君臨』取材班は批判の中心人物のひとりだったある著名ネットユーザーを取材し、『難病児募金をあざける「祭り」』と題した連載第1回で取り上げた。

 掲載された記事は決してその人物を正面から批判してはいないが、「男」と表現していた。新聞記者なら誰でも知っていることだが、「男」という表現は、犯罪者、容疑者、反社会的人物などの代名詞として使う。一見公平を装いながら、じつは読者に対してその人物は禍々しく、卑怯な人間だという明らかな印象操作を行なっていた。その後、私が彼を直接取材したところ、記事を書いた毎日新聞の記者は、最初の取材申し込み時点では所属や連絡先などを明確にせず、実際の取材でも最後まで明確な取材趣旨を説明せず、最初から議論を吹っかけるようだったという。

 彼は毎日新聞が読者向けに開設しているコミュニティサイトに取材手法や記事内容について質問状を出し、それに対して何の回答もないと取材班に抗議の電話をかけるなどした。結局、〈社としての回答は「見解の相違としかお答えできません」〉という回答がきただけだった。
 従来なら、取材対象者がいくら新聞社に抗議しようと、黙殺されるか、横柄な、あるいは官僚的な対応をされて終わりだった。ところが、時代は変わった。
 彼は一連の経緯を自身のミクシィ上の日記で公開したのである。そして、それが他の多くの日記ブログにリンクされ、掲示板にもコピーが貼られ、毎日新聞に対する批判の嵐が起こった。

ネットを見下している限りマスメディアに未来はない

 このように、現在のマスメディアは、取材現場やプロセスがネットという公の空間で可視化されるという危機に晒されている。さらに危機的なのは、マスメディア自身がその危機に極めて鈍感であることだ。
(略)
 マスメディアは不祥事を起こした一般企業を厳しく追及し、法令遵守と説明責任を強く求める。ところが、いざ自分が不祥事を起こすと、それとは正反対の態度を取る。その実態がネットという公の空間で公開されるようになったのである。
 同様に、ネットユーザーが、マスメディアの報道内容や報道姿勢に疑問を持ち、マスメディアに問い合わせ、それに対する返答をそのままネット上で報告するケースはいくらでもある。

 マスメディアの側はネットの言論をいまだに「フリーターやニートが適当なことを書いている」と見下している。
 しかし、その影響力はマスメディアが想像するよりもはるかに大きい。実際、WaiWai問題では、多くのネットユーザーが毎日のサイトに広告を出稿している企業に抗議電話をかけた結果、一時はネットの広告が全てストップし、本紙の広告にも影響が出た。リアルの世界に対するネットユーザーの影響力はここまで高まっているのである。

 ネットの登場、普及により、マスメディアの言論とネットの言論が等価値になり、言論のあり方がフラット化した。読者、視聴者のメディアリテラシーも格段に向上した。
 だが、長年「自分たちだけが報道する権利を持つ」という特権意識にあぐらをかいてきたマスメディアは、こうした時代の変化や問題の本質を理解できないでいる。ネットユーザーを見下し、恐怖し、憎悪しているだけでは、マスメディアはますますネットユーザーから不信感を抱かれ、批判を浴びるのは当然だ。

「首相は安い店に行け」 高給番記者たちの「庶民感覚」(2008年10月23日J-CASTニュース)

   麻生首相が、毎日のようにホテルのバーや飲食店で過ごしていることについて、「『庶民感覚』からかけ離れている」との声がマスコミからあがっている。これに対して、麻生首相も「ホテルのバーは安全で安いとこ」などと反論。さらに、「(安い店に行って)営業妨害だって言われたら何て答える?聞いてんだよ。答えろよ」などと、記者に向かって食ってかかる一幕もみられた。麻生首相が「ホテル会合」の正当性を主張する一方で、記者団からは「ホテルのバー通いが良くない」ことの積極的な理由が示されることはなかった。
(略)
   「ナイトライフ」についての質問が出たのは、10月22日の、カメラが入っていない昼の会見だ。北海道新聞の女性記者が
    「夜の会合が連日で、一晩に何万円もするような高級店に行くのは、庶民感覚とかけ離れているのでは」
と切り出すと、麻生首相は「高級店」を「高級料亭」と聞き間違えたのか、
    「ホテルが一番多い。あなたは今、『高級料亭に毎晩』みたいに作り変えていますが、それは違うだろうが。馬尻(東京・六本木の洋風居酒屋)が、いつから高級料亭になった?言ってみろ」
と反論。記者が
    「一晩に、一般の国民からすると、高いお金を払って食事をする、という意味」
と説明すると、首相は
    「たくさんの人と会うと言うのは、ホテルのバーっていうのは安全で安いところだという意識が僕にはあります。だけど、ちょっと聞きますけど、例えば安いとこ行ったとしますよ。周りに30人からの新聞記者がいるのよ。警察官もいる。営業妨害って言われたら何て答える?新聞記者として『私たちの権利です』って、ずーっと立って店の妨害して平気ですか?聞いてんだよ。答えろよ」
とヒートアップ。

新聞記者の給料は庶民的?

   記者側も「われわれは営業妨害をしないように…」と釈明したが、首相は
    「現実、(営業妨害)してるって。現実、みんな『している』って言われているから。だからホテルが一番(苦情を)言われないんですよ。分かります?これまでのスタイルですし、これからも変えるつもりは、今のところありません」
などと譲らなかった。
(略)
   結局、会見からは「首相が『大衆居酒屋』を使うと混乱が起こる」「首相は、これからもホテルを使い続ける」といったことぐらいしか明らかにならなかった形だ。
   記者団は「庶民」という言葉を繰り返すが、「広辞苑第6版」によると、「(1)もろもろの民。人民。(2)貴族などに対し、なみの人々。世間一般の人々。平民。大衆」という意味。
   首相が「庶民」であることが必要な理由は明らかにならないままで、記者と首相のやり取りは、かみ合わない状態が続いている。

   もっとも、取材する側も、「『庶民』とは程遠い」との指摘もある。例えば給与面を見ただけでも、朝日新聞社社員の平均年収は1358万円。幹部クラスなら2000万円プレーヤーだ。比較的経営が厳しいとされる毎日新聞でも、870万円。なお、国税庁の調べによると、07年のサラリーマン平均収入は437万円だ。
   さらに、勤務実態を見ても、庶民とはかけ離れているという指摘が避けられなさそうなのだ。

   週刊ポストが08年4月11日号で、4ページにわたって番記者の実態を特集しているが、外国特派員協会の副会長が、記者会の様子をこう証言している。
    「官邸クラブの記者席には間仕切りがあって、若い記者が短パン姿でテレビを見たり、プライベートとしか思えない長電話をしている。役所の担当者が『3時から会見です』と資料を配ると、一斉にペーパーを奪ってパソコンを打ち始める。まるでネットカフェです」
   庶民とはかけ離れたところで、「庶民感覚」について議論が続くことになりそうだ。

読売新聞「新聞が必要 90%」の謎(2008年10月18日CNET Japan)

「新聞を全く読まない」4.5%の謎

 読売新聞10月13日版の調査記事「新聞、これからも必要」が90%…読売世論調査は、いささか新聞の自画自賛ぎみの報道であった。
(略)
調査方法は、個別訪問面接方式、全国の有権者(つまり20歳以上)3000人のうち、回収率61.2%の1835人であった。しかし、この40%近くの人が、回答を拒否したのか、不在で会えなかったのか、はたまた新聞を取っていなかったので回収不能にしたのかわからない。ただ、質問のひとつに新聞を読む時間の質問に対して、全く読まないと答えたのが4.5%というのはあまりにも少なすぎる。この回収できなかった40%近くのかなりの部分で「新聞を取っていなかったので回収不能」でなかったのかと疑問さえ覚える。
(略)
新聞社が理解していないこと

 ともかく、読売新聞の調査の発想は、読者と新聞の関係は、未来永劫変わらないと考えていることだ。昔、「私作る人、あなた食べる人」という一方的に決め付けたCMがあったが、読者はせいぜい読者欄で感想を述べるだけで、読者から情報を発信するという事実を捉えられていない。

 佐々木俊尚氏の最新刊「ブログ論壇の誕生」では、「anti-monosの新メディア論」を引用している。
    既存のマスコミが絶対に理解できない、かつ生理的にも受け付けられないネットの特徴は「編集権を読者に委ねている」ということ。新聞、ラジオ、テレビと既存のマスコミはすべてニュース価値をマスコミの側で判断し、それを受け手に与えるという構造だった。何をどう扱うかは最初から最後まで、すべてマスコミ次第。つまり「編集権を完全にコントロールできる」状態。言い方を変えれば完全なる「押し付け」だ。だから、マスコミはブログやSNSなど受け手の側が発信、編集するというのは生理的にも受け入れられない。(マスコミの人間が決定的に理解できないネットの本質 ~朝日、日経、読売3社連合「あらたにす」を見ての感想)

 佐々木氏は、これを受けて
     事態はかなり絶望的だ。
     それだけではない。
     ブログ論壇の急速な台頭も、日本の新聞社のプレゼンスをさらに低下させる大きな要因となっている。

     後に述べるように、世代間対立を背景として若い世代の新聞社への信頼感はいまや急速に薄れている。マスメディアが体現する団塊世代の言論空間と、ネットで勃興しているロスとジェネレーションの言論空間の間に、お互い相容れないギャップが生じてしまっているからだ。

     記事というコンテンツは、「一次情報」と「論考・分析」という二つの要素によって成り立っている。新聞社は膨大な数の専門記者を擁し、記者クラブ制度を利用して権力の内部に入り込むことによって、一次情報を得るという取材力の部分では卓越した力を発揮してきた。だがその一次情報をもとに組み立てる論考・分析は、旧来の価値観に基づいたステレオタイプな切り口の域を出ていない。たとえばライブドア事件に対しては「マネーゲームに狂奔するヒルズ族」ととらえ、格差社会に対しては「額に汗して働く者が報われなければならない」と訴えるような、牧歌的な世界観である。

     このようなステレオタイプ的な切り口は、インターネットのフラットな言論空間で鍛えられてきた若いブロガーから見れば、失笑の対象以外の何者でもない。彼らは新聞社のような取材力は皆無で、一次情報を自力で得る手段を持っていないが、しかし論考・分析の能力はきわめて高い。ライブドア事件にしろ格差社会問題にしろ、あるいはボクシングの亀田問題にしろ、読む側が「なるほど、こんな考え方があったのか!」と感嘆してしまうような斬新なアプローチで世界を切り取っている。

     今の日本の新聞社に、こうした分析力は乏しい。論考・分析の要素に限って言えば、いまやブログが新聞を凌駕してしまっている。新聞側が「しょせんブロガーなんて取材していないじゃないか。われわれの一次情報を再利用して持論を書いているだけだ」と批判するのは自由だが、新聞社側がこの「持論」部分で劣化してしまっていることに気づかないでいる。ブロガーが取材をしていないのと同じように、新聞社の側は論考を深める作業ができていないのだ。(佐々木俊尚著「ブログ論壇の誕生」文春新書)

盗用と引用の区別ができない新聞記者

 佐々木氏の「論考を深める作業」とは何か。それは、新しい発想ができないということである。取材を通して、自分なりの記事を書くという基本を忘れてしまえば、それは単なる作業である。作業になれば考える必要が無い。
 新聞記者は、引用記事というのは嫌うらしい。引用であっても、いかにも取材しましたという記事を書く。そこに妙な自負と欺瞞がある。
 しかし、それは盗作であり、盗用である。引用したなら、ちゃんと引用元を記載するのが最低限の礼儀だと思う。
(略)
ITProに佐々木氏を交えての「時代錯誤の舞台装置はもういらない---続々・「マスゴミ」と呼ばれ続けて」という記者座談会があった。結論部分で

    収益モデルをいかに考えるのかという問題は残りますが,これからのマスコミはどうすればいいと思いますか。

    佐々木氏:自分で考えたことを自分の名前で書くという方向に行くべきでしょう。そして,記者個人が専門家になることも重要です。例えば,日経コミュニケーションの記者などは,通信業界の人よりも通信について詳しいので(※筆者は含まない),そういう記者であれば誰も「マスゴミ」と馬鹿にしないでしょう。世の中の人たちすべてに同じ記事を読んでもらうことは時代背景上,成り立たなくなっているので,細分化してきた情報圏域ごとに的確かつ深い情報を届けることが,これからの記者には求められています。

     専門家によるブログには詳しい情報がありますが,そこには公平性の担保がないことも多いです。やはり,多用な視点が取り込まれているか否かは重要で,一つの事象についてAさん,Bさん,Cさんに取材をし,そのバランスを取って記事を書くことは,記者にしかできません。入念な取材と多用な視点からの深い分析に裏打ちされた論考が,求められています。

    阿部(ファクタ出版発行人兼編集長・阿部重夫氏)氏:我々ジャーナリストの役割はモノローグではありません。ブログはそれでもいいのかもしれませんが,我々の最終的なミッションは,“裏を取る”ことであり,それができることこそが,ジャーナリストの信用であり,生命線なのです。

     ただ,裏を取るということは簡単ではありません。相当の修練や人脈が必要で,それらは時間も労力もかかるし,これといった解があるわけでもありません。プロのジャーナリストである以上,自らの特権は「一次情報に触れられる」というところにあるのではなく,「裏を取れる」というところにあることを意識し,それをフル活用した記事を書くことこそが,我々の仕事の本質です。それができている以上,その記者は決して,マスゴミとは言われません。(時代錯誤の舞台装置はもういらない---続々・「マスゴミ」と呼ばれ続けて)※(筆者は含まない)というのは、この記事を書いた日経コミュニケーションの記者のこと

新聞社は、一次情報に触れられる特権に守られ、自分達の取材力を伸ばせないでいる。今回の世論調査がいわば、仲間内の評価しか見えないのは、いまだに新聞社に危機感が無い証拠である。

 記事中にも出てきますが、もともと新聞記者という人種の一番の強みは何かと言えば、この目で現場を見てきたということではなかったかと思います。
 一次情報を知っているからこそ書けるというのはネットメディアに対しても強みになるべき既存マスメディアの最大の存在価値だったはずですが、問題は昔ほど世の中というものがシンプルではなくなってきたということなのかも知れませんね。
 昔は単に取材して記事を書くだけで良かったものが、今はとりあえず現場に行って取材はしてみたものの何が問題なのかも判らないことが多くなったと言うことでしょう。

 専門の壁に阻まれて判らないことが多すぎる、仕方がないから事実関係の記載に関しては自分に判るごく狭い範囲にとどめ、ひたすら読者の感情を煽るだけの記事を書く、世間でも受けているみたいだしこれでいいんだと勝手に納得している。
 確かにワイドショーならそれでもいいのかも知れませんが、ものが判っている人間が見れば「はぁ?こいつなに寝言言ってんだ?!」と噴飯モノの底が浅すぎる記事が最近あまりに増えてきてはいないでしょうか?
 新聞の場合は速報性を犠牲にしているわけですから、少なくとも社内できっちり検証して記事に出すくらいの最低限の作業はしてもらいたいですね。
 もっとも解説なる記事自体の判っていない中身などを見るに付け、そもそも新聞社内で専門領域の検証に耐える人材自体が完全に払底してしまっているのが一番の問題なのかも知れませんが、それは解決できない問題なのでしょうか?

 佐々木氏なども言っているように、ネット上では各分野の専門領域に幾らでも人材があふれています。
 一次情報に触れることに強みを持つ既存マスメディアと、専門性に基づいて深く掘り下げることが得意なネットメディアというのは本来対立するべきものではなく、むしろ理想的な相補的関係を築けたかも知れないものだったのですよ。
 残念ながら毎日新聞を筆頭に既存マスメディアのネット敵視は軽減するどころか増強される一方のようですが、双方の情報に等しく触れることの出来る読者たちは果たしてどちらの内容を支持するでしょうか?
 昨今では大手新聞社など既存マスメディアの経営危機が盛んに伝えられていますが、今後も生き残りたいのであれば黒白の決着が完全についてしまう前に、一度そうした読者の視線から物事を考え直してみる必要があるように思いますね。

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