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2008年9月 8日 (月)

大野事件後に医療事故調問題を考える その四

前回につづいて医療事故調についてもう少し考えていきたいと思います。
それぞれの立場から夢のような未来図が語られるばかりでも現実味がないのは確かなので、事故調導入のメリットとデメリットをもう少し現実的に予想してみる必要はあるでしょう。

現場の意向を全く反映していない医師会なる組織の公式発言はともかくとして、医師の間でも事故調導入には賛否両論ですが、医療訴訟の場に引き出されていく一般臨床医にとっては実のところ、現状と比べて悪化する要因は少ないと見ています。
どの組織の出している案であれ、複数の医療専門家(当該分野の経験豊富な医師?)による検討という点では一致しています(この人選もまた議論の余地多々あるところですが、ここではスルーします)。
これは恐らく医者という人種に限りませんが、各分野の権威とも目されるような人間は基本的に他人の意見を素直に首肯するより、自分なりの見解なりひと言なりを付け加えたがる傾向があります。
そして何より自分たちの議論の結果が直接裁判の行方をも左右しかねないともなれば、よほどの事でない限り断定的な結論は出てこないでしょう。
結果として出来上がる報告書は両論併記、どちらとも取れる灰色というものが多くなるのではないでしょうか。
そして大野病院事件判決で示された基準に従って判断するならば、そういう灰色の報告書に基づいて起訴することには検察も躊躇せざるを得ない、とすれば刑事訴訟のリスクは低下するか、少なくとも今より高くなることはないと見ていいのではないでしょうか。
一方で民事訴訟のリスクについては、現在多くの医療訴訟において原告側の要求はただ真実が知りたいだけだと言う声を耳にするところです。
とすれば、民事法廷の方が事故調の報告書より正しい真実を得られそうだという予測がない限り、事故調導入は民事においても抑制的に機能するのではないでしょうか。
最も訴訟に至る率としては低減したとしても、後に述べるように実数としては何とも言い難い部分はあるかとも考えているのですが。

一方の患者、遺族側にとってはどうでしょうか。
訴訟といういわば全面対決の場以外に詳細な検討を行える方法が存在するということに関しては、少なくとも事故調導入に反対する患者団体の意見を見たことがない点からも一定の評価が得られるのではないかと考えています。
しかし患者が求める真実を事故調によって手に出来るかどうかが何よりの問題なのであって、まして事故調さえ出来れば何かが変わるという過剰な期待感こそ禁物だろうと言う点には留意する必要があります。
すなわち医療における事実と、患者や遺族が求める真実とが同じであるという保証は全くない以上、ある程度の確率で事故調の報告に納得できないという声が上がるだろうことは想像に難くありません。

そもそも人が病気になること、生ある者が必ず死ぬことこそ患者にとって最も理不尽極まる現実なのであって、それを納得させるということはたやすく出来るような簡単なものではないはずなのです。
医師は医療の専門家であって人間の持つ事実の一端に迫る能力を他の誰かよりは持っているのは確かかも知れませんが、その事実を最も正しく患者に伝え理解させることに関しての専門家では全くない。
つまり医療の専門家が大勢集って検討する調査委であるなら、患者を納得させ得る報告書を出せるはずだという保証も必然性もどこにもないということです。
そして何より問題なのは、こうした「非専門家」の片手間仕事によって日々刻々と医療現場での誤解の連鎖が広がっていることでしょう。
そうであるなら方向性こそ違えど、患者と医師の双方が持っているこの種の誤解あるいは傲慢を払拭することこそが何よりも必要なのではないかと思います。
そのために最も必要とされるものが本当に事故調の設立なのかどうか、あるいは事故調がなければそうした現状を打破できないのかをもう一度考えてみるべきなのかも知れません。

ところで、事故調の実現性、実効性を考える上で考慮すべき最優先の課題はそれに必要なマンパワーではないでしょうか。
現在医療訴訟は年間千件ペースに達していますが、訴訟外の中立的調査機関となれば今の訴訟件数よりずっと増えることはあっても減ることは考えがたいのではないでしょうか。
結果としてそれぞれの案件に数人の医師が関わるとして、のべ人数で少なくとも数千人、下手をすると万のオーダーの医師が毎年事故調の業務に拘束されることになるわけです。
問題は今の医療界にそれだけの余裕があるのかどうか?と言う点ですね。

考える材料として、とある基幹病院での事例を取り上げてみましょう。
そこはスタッフが馬車馬のように働かされることで有名な病院で、今の時代にあっては当然のように医師の逃散相次ぎ、看護婦の離職率も高くそれが更なる過重労働を招くという典型的な悪循環を来していました。
その病院でオーダリングシステム上のささいな入力ミスから医療事故が起き、院内ではさっそく事故対策委員会が開かれました。
委員会の結論は、これはチェック体制が出来ていないことによるヒューマンエラーだと言うものでした。
既にダブルチェックを徹底するという内規は存在していたが、それで不足であるなら仕方がない、かくしてあらゆる薬品、物品は使用前に医師と看護師によるトリプルチェックを受けることになったのです。
この結果どうなったかと言えば、医師、看護師の残業時間が更に伸びることとなり、過労による単純ミスとスタッフの逃散は今まで以上に悪化したのでした。

この場合自分なりに考える結論として、チェック体制の充実はミスを減らす一つの方法であるかも知れないが、それが有効に機能するのは関わるスタッフの業務量に十分な余力がある範囲に限られるということです。
そして不幸なことに、現在の医療現場に暇な人間などそう多くはいないのです。
事故調設立後の医療界の労力が現状より増えるのか減るのか、もし増えるのであるのならどの程度増えるのかという予測は今のところ厚労省からも他団体からも明確には示されていないようですが、もしそれが医療界に破滅的な結果を招くほどのものであった場合にどうするのかという対策は考えておかなければなりません。
正しい方法が結果を改善するのに必ずしも有効な方法と言うわけではないのであれば、求めるべきは方法の正しさなのか、結果の正しさなのかと言うことはもう一度よく考えてみるべきだと思いますね。

そしてもう一点重要なことは、訴訟リスクに対する恐怖とは数字で評価されるものではないということです。
早い話が統計的に幾ら安全であると言われたところで、飛行機に乗るのが怖い人間というのは一定確率でいるものなのです。
怖いのならば飛行機に乗らなければいい、実際飛行機にだけは乗らないという人も存在するわけで、医療の世界においてだけそうした恐怖感と無縁であるなどと考える根拠はありません。
厄介なのが「危ないことには手を出さない」、いわゆる防衛医療といわれるようなものは医師の心構えの問題であるだけに、統計的に示し得るような社会的影響が出てくるような段階に至って初めてその実態が明らかになるということです。
「事故調が出来たのだから医師達も安心して医療を行うことができるはずだ」などという根拠のない期待感は、それが正しいのか正しくないのかすら当面検証のしようがないというわけです。
事故調設立が医師の逃散、ひいては医療崩壊に対する何か特効薬のように感じている者がいるとすれば、現段階ではそれは単なる幻想に過ぎないことだけは承知しておくべきでしょう。

結局のところどんなシステムを作るかという議論の前に、一億の日本人が医療というものの目標点をどこに置くのか?という話が必要になってくるのではないでしょうか?
現状ではそうした議論も合意形成も全くなされていないとしか思えない中で、「とにかく何かつくってしまえば」という妙な期待感だけが先行しているのが気になるところです。
現実問題たった一つ確実なのは、医療に限らずどんな分野であれ事故や失敗は決してゼロには出来ないという単純な事実だけではないでしょうか。
何かしら過誤があったから補償しましょうという論理は、逆に過誤がなかったから補償は出来ませんと言う論理へと結びつきやすいものであって、実際に福島大野事件の発端もこうした「補償のための過失認定」という本末転倒の話が契機となったことは記憶に新しいところです。
そうであるなら無過失補償のようなものであれ患者用医療補償保険のようなものであれ、避けられないものに対する何らかの対応策というものは社会的に整えていかなければならないのは必然ではないでしょうか。
医療というシステムが存在することによる国民全体の利益を最大限にしていくためにはどうすればよいのか、そのために国民がどんな負担をしていかなければならないのか、遠回りなようでももう一度そこに立ち返り国民全てが当事者として議論を行っていかなければならないと思います。

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