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2008年7月30日 (水)

救急医療、崩壊!? その一

前回の話題「医療崩壊の嘘!? その四」に続いて今度は救急医療の話題を。

まずは出たばかりの記事をひとつ紹介します。

救急医療事故:医師らの免責検討…自民が刑法改正

 自民党は29日、救急救命に関係した医療事故について、事故を起こした医師らの刑事責任を免除する刑法改正の検討を始めた。党の「医療紛争処理のあり方検討会」で、座長の大村秀章衆院議員が私案として示した。免責の範囲などを今後議論するとしているが、医療事故の責任を不問とすることに患者側から反発も出ている。

 医師らは、通常の医療行為で患者が死亡したり障害が残った場合は罰せられないが、必要な注意を怠ったと判断されれば業務上過失致死傷罪が適用される。救急医療では、99年に男児が割りばしをのどに刺して死亡した事故で、適切な処置を怠ったとして医師が起訴された(1審無罪で検察側が控訴中)ケースなどがあるが、医療界から「刑事罰は医療の萎縮(いしゅく)を招く」との批判も出ていた。

 座長私案は、刑法の業過致死傷罪の条文に「救急救命医療で人を死傷させた時は、情状により刑を免除する」との特例を加える。厚生労働省が導入を計画する死因究明の第三者機関「医療安全調査委員会」の設置法案とセットで、議員立法による改正を目指すとしている。ただし法務省内には「医療事故は当事者同士が納得して刑事処分を求めないのが望ましい。現状でも処分は抑制的に行われている」との声もある。

 一方、医療安全調査委の検討会委員で、小児救急の誤診を受け息子を亡くした豊田郁子さん(40)は「医療事故の防止は医療者と患者が一緒に考えていくべき問題なのに、まず免責ありきという考えはおかしい」と指摘している。【清水健二、石川淳一】
毎日新聞 2008年7月29日 19時57分

医療と刑事免責という話題について興味をもってきた人々にとって、実際に政府筋においてもこうした動きが出てきたことは少なからず意外なのではないでしょうか?
実際に弁護士が運営し司法のみならず医療関係者も大勢出入りする「元検弁護士のつぶやき(モトケンブログ)」あたりでの過去の議論を見ていると、まず現実的ではなかろうという声が主流だったように思うのです。
まあこれも実のところでは、昨今いろいろな政治家、省庁が思いつきで言っているとしか思えないほど日替わりで医療問題に口を出しているいるわけです。
それらのうちでまともに実現しているものが一体幾つあるのかと考えた場合に、これもそうした忘れ去られた過去の話の一つになっていくのかとも思うわけですが。

この件は当面様子をみていくとして、今回のお題であるところの救急医療問題。
最初にいくつか整理しておきたいのですが、第一に救急医療の崩壊とは時間外診療の崩壊としてとらえるべきかと考えています(少なくとも現時点では)。
たとえば近い過去における報道において「たらい回し」の「搬送拒否」のと大騒ぎになっていたこともご記憶に新しいところかと思います。
これらの事例が実際のところどんな状況で起こったのかと見直してみると、判る範囲ではほぼ全例が夜間、休日といった診療時間外での出来事なのですね。
繰り返すようですが現時点に限って言えば、平日日勤帯で搬送先を探すことは報道上も現場の実感としても未だ大きな問題とはなっていないと見ていいと思います。
まあこれも、毎日新聞社の尽力によって産科医療事故根絶が達成された奈良県南部のような医療先進地域を例外としての話ですが(苦笑)。

また、この救急医療問題と先に取り上げた医師不足問題を絡めることは少しばかり実態から話がそれる可能性があると思っています。
なぜなら医師不足が進んでいるはずの僻地においては、マスコミが言うところの「たらい回し」はさほど問題となっていないからです。
考えてみれば当たり前のことであって、田舎に10も20もたらいを回せるほど病院の選択枝があるわけではありません。
今も昔も何かあればとりあえず圏内唯一の救急病院である自治体病院へという状況では、こと救急搬送に関する限り迷う余地だけはないわけです。
一方で都市部における救急病院と言うものは先の医師不足問題においてマスコミが言うところの「医師が集まっている病院」に相当するわけなんですね。
むろん業務量に対して医師数が余っているわけでもないし、地方は地方で救急に関する問題は二次搬送を始めとして多々あるのですが、今回は幾らでも病院はあるのに搬送できないという都市部での救急医療の問題を中心に考えていきたいと思っています。

それはともかくとして、救急に限らずどうも医療崩壊という問題に関しては誰もが「かくあるべし」論ばかりで現場の感覚と乖離した場所で語り合っている傾向がないでしょうか?
医療を受ける側にとってどんな素晴らしいシステムであろうが経営的に(金銭的にのみならず人材的な意味も含めて)受け入れがたいものであれば病院は背を向けます。
病院を経営するものにとってどんなに望ましいやり方であれ、物理的、肉体的、そして感情的に受け入れがたいものであれば医師は立ち去ります。
どんな素晴らしい理論であっても、現場に存在する問題を解決するのに役立たないのであれば無意味ですよね?
昨今では防衛医療と絡めて訴訟リスクがどうのと言う話も盛んですが、客観的にみてリスクは大きくないだのと司法のロジックを理路整然と説明してもらっても少しもありがたくないのです。
なぜならこれは「理解するかしないか」の問題ではなく、実際に医療を行う側が「どう感じているか」の問題だからです。

このあたりの医療訴訟と防衛医療といった話題はいずれ別件で書いてみたいと思っていますが、ひとつ非医療者に認識しておいてもらいたいのは「人は具合が悪いから病院に来るのだ」という当たり前の事実ですね。
救急車に乗ってやってくる人は(昨今ではどうでもいいような患者も救急車に乗ってくる場合も多いのですが…)元々が放置すれば死ぬ、死なないまでもひどいことになる人たちなのです。
そういう人々を目の前にどんと預けられた者の素朴な感覚として、「放っておけば死ぬ人間を助けられなかったら人殺しなの?」という疑問は常にあるわけです。
医療現場のリスクというものに対する感覚がやや過剰にも見えるかも知れませんが、このあたりのことは決して無視するわけにはいかないと言うことは言っておきたいところですね。

例えるなら「ファイト!」「一発!」で有名なCMがありますが、山登りで相棒が落ちそうになった時に、その手を掴んで引き上げられなかったら人殺しとして逮捕される。

あるいは火事の通報で消防隊が駆け付けた場合に、家が焼けるのを防げなければ責任を取って賠償せよと言われる。

もしそんな社会になったとすればどうでしょう?道義的にどうとかいった部分以前に、率直に「やっとられんなあ」とは思わないですか?
これは何度でも強調しておきたいところですが、医者だって人間なんですよ。
誰もがやりたがらない事を望んでやるようなマゾヒストばかりが集まった変態集団などではないのです。
どんなに複雑怪奇に見えようとも、医療現場で起こっていることの大多数は突き詰めて考えれば当たり前の現象の積み重ねでしかありません。

こうした現象は「納得できないから」「誠意が感じられなかったから」と病院や医者を訴える患者・遺族と同じ構図という見方も出来るかも知れません。
その道の専門家から「いや、これは正しい対応でした」と説明されたとして、納得して訴訟を取り下げると思いますか?
実際の事例で見てみましょう。
今日の医療現場では一昔前とは比較にならないほど懇切丁寧な説明を行い同意を得ることを重視するようになっていますが、それにも関わらず医療訴訟はどんどん増えていますよね。
一方で近年では司法試験合格者が大幅増となり、実生活とネットとを問わず司法関係者から詳しく説明を受けられるようになりましたが、医者が訴訟リスクに納得するようになったわけでもなければ過酷な現場からの逃亡=逃散が下火になったわけでもありません。
ここでも医者だけが特別なのではない、ごく当たり前の現象が起こっているだけなんだということが言えるんじゃないかと思いますね。

医療崩壊が叫ばれる今この時にあって、我々は(この「我々」は「国民の一人一人は」というくらいの意味ですが)何をしていくべきなのか?と言う点を考えていければいいのかなと思っています。
繰り返しになりますが、現場で起こっている現象を無視した議論、現場で起こっている問題を解決するのに役立たない議論はいくら論として正しかろうが意味がありません。
まずは目指すべき目標をどこにおくかをしっかり見据え、その目標を達成するのにどの方法論が有用かを考えていくことが議論の大前提であるべきではないでしょうか。

「いざと言うとき救急車を受け入れてくれないのは困るから、何をおいても100%受け入れ出来る体制を作れ」なのか。

「いい加減な医療で助かる患者が助からないのは問題だから、ぜったいに医療事故のないシステムを整えてくれ」なのか。

「際限なく増加していく医療費が国の行く末も左右するのだから、これ以上医療費増大は絶対に避けてくれ」なのか。

「医者の激務が現場からの逃散を招き更なる労働環境の悪化を招いているのだから、まずこの悪循環を何とか断ち切ってくれ」なのか。

目指すべき目標が違えば取るべき方法論も異なるのは当然のことです。
そしてこの場合往々にして異なる目標の一つを解決しようとすると、他の目標達成という点ではかえって退歩してしまうということが少なくないわけです。
よく言われることですが、医療において「必要なコスト」「医療の質」「受診のしやすさ」の三つ全てを満足することは出来ないのです。
例外的に過去の日本の医療においては、ヒラリーの言うところの「医療従事者の聖職者さながらの献身」によってこれら三要素が極めて高いレベルで満足され、それ故にWHOからも総合的に見て世界一の医療であるとの認定を得ていたのですが…
しかし多数の利益のためには少数に基本的人権も無視した労働を強いることも是とするならば、それは奴隷制度と何らの変わりもないのではありませんか?
これも繰り返しになりますが、医者だって人間なのです。

仮に(と敢えて言いますが)「救急医療の崩壊を阻止すること」が目標であるならば、どんな方法論が考えられるでしょう?
理論的にはどれほど正しく望ましいシステムであれ、現場の医師あるいは病院にとって受け入れられないもの、結果として崩壊を促進させる要因にしかならないものはこの場合意味がないわけです。
まずはこうした点を出発点として話を始めていかなければ議論のための議論に終始してしまうのではないか、いや単なる将来に対する危惧ではなく既に現実のものとなっているようにも思えますが。
もっとも一番の問題はこの場合、目指すべき理想の医療環境が語る者全てにおいて違っているらしいと言う現実に誰しも正面から向き合っていないと言うことなのかも知れません。
何しろ今日の状況では現場で働く多くの医師達にとって、救急医療が崩壊して悪いことなど何もないのですから。

まずはここで原点にかえって、医療現場がなぜ救急から手を引くようになったのか?と言う点から考えてみましょう。
根本的な理由は極めてシンプルであって、あらゆる意味でそれが割に合わなくなったからです。
リスクを犯しても得られるべき利益がリスクに到底見合わないものであったならば、誰がそんなことに手を出すでしょう?当たり前のことですよね?
近ごろではネットや報道でも「なぜ受け入れ出来なかったのか」という分析はなかり為されていますが、「なぜ受け入れをしないのか」という部分に関してはまだまだ理解が進んでいません。
何しろ救急を受けるメリットは何一つないにも関わらず、受けた場合のデメリットは星の数ほど存在していることが、医師の間においてすら周知徹底されていないのですから。
いやしくも自ら救急医療などというものに手を染めようとする医師ならば、「できるかできないか」などというレベルではなく、今や積極的に救急医療は「やってはいけないもの」になったという現実をこそ認識すべきなのです。
今どき救急をやりたがっている医者はよほど情報収縮能力に問題がある者か、リスクと利益の双方を正しく評価することが出来ない者か、敢えて言うならそういう評価すら出来るかも知れません。
そうした能力は本来医師としての業務上においても必要とされるものであると考えれば、彼らが無条件の称讚に値する存在とは到底言えないのではないでしょうか?

こういう言葉があります。

「上手くいって当たり前でひとつ間違えばたたかれる。
これを理不尽 に思ってはいけないと思うのです。
それはどんな職業でも当然のことなのです」

一連のいわゆるたらい回し報道において、現場の医師達は「恥を知れ」と罵られました
救急医療を取り巻く環境を正しく見つめ直した上で、ほんとうに恥を知れと言われるべきなのは誰なのでしょうか?

状況を適切に分析・評価し、正しい判断を下した人々ですか?

周囲の全てに目を閉ざし耳をふさぎ、当たり前の結論が導き出せなくなった人々ですか?

それとも自らは安全な場所から一歩も足を踏み出すことなく、他人には奴隷たれと強要する人々ですか?

答えはそれぞれの立場によって変わるでしょうが、今もっとも必要とされているのは実際に現場に携わる者達にとっての正解が何かという点ではないですか?
的外れな他人にとっての正解を押しつけられている限り、いつまでたっても現場の状況は何一つ改善されることはないでしょう。

前置きが長くなりすぎましたので、今回はこのあたりで。
次回は引き続き「救急医療、崩壊!? その二」として「なぜ救急をやってはいけないのか?」の話を書いてみたいと思います。

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